インドのヒンドゥー教と日本の神道には、いくつか共通点がある。
これからそれを5つ紹介していこうと思う。
ヒンドゥー教と比べることで、神道のことも分かってくる。
まずは、あらためて神道とはどんな宗教なのか確認しておこう。
これは日本うまれの民族宗教で、石や木などの自然物に神が宿るという信仰からはじまったとされる。
歴史(政治)的には、8世紀ごろまでは氏神の祭祀を中心にしていたのだけど、律令国家になると神社を中心に再編成された。
日本にいる外国人には、仏教と神道の違いがよく分からない人もいて、「屋台を引き回す祭りを見たんだが、あれは仏教の行事? それとも神道?」なんて質問をされたことがある。
あれは神道ですよ。
では、ヒンドゥー教とはどんな宗教なのか?
高校の世界史ではこう習う。
ヒンドゥー教
バラモン教に、先住民の土着信仰が吸収・融合されて成立した宗教。特定の経典を持たない。多神教であるが、三大神のうちのシヴァ神とヴィシュヌ神が中心となっている。冠婚葬祭など日常生活に関わっている。
「世界史用語集 (山川出版)」
ヒンドゥー教の最高神・シヴァ(日本だと大黒天)
ここから神道とヒンドゥー教の共通点をあげていく。
1、民族宗教
神道とヒンドゥー教は世界宗教ではなくて民族宗教になる。
世界宗教とは、民族や国を越えて世界に広く伝わる宗教のこと。
仏教・キリスト教・イスラーム教は世界宗教になる。
ちなみに、この3つの宗教には「アジア人がはじめた宗教」という共通点がある。
こんな世界宗教に対して、民族宗教とは特定の民族によって展開される宗教で、ユダヤ民族のユダヤ教や日本の神道などがある。
ヒンドゥー教は「特定の民族によってのみ担われる宗教」という点で神道と同じだ。
神道もヒンドゥー教も民族の違いを越え、世界中に広がる宗教ではない。
2、開祖がいない。
開祖とは、その宗教(宗派)をはじめた人のこと。
ここで質問。
世界宗教の仏教、キリスト教、イスラーム教の開祖はだれでしょう?
シャカ(前5世紀ごろ)、イエス(1世紀ごろ)、ムハンマド(7世紀ごろ)の3人。
*ネットには「キリスト教の開祖(創始者)はイエスではない!」なんて情報がある。
でも、そんなことはない。
世界史用語集には「キリスト教を創始したユダヤ人」と書いてある。客観的な歴史ではこれが事実。
独自に解釈したトンデモ情報には気をつけよう。
神道とヒンドゥー教にはこの開祖がいない。
神道もヒンドゥー教も日本とインドで自然発生的に生まれた宗教だから、「いつだれが始めたのか?」ということが分かっていない。
3、多神教
ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は一神教の宗教。
ヤハウェ、ゴッド、アッラー以外の神は認めていない。
でもじつは「ヤハウェ、ゴッド、アッラー」は、それぞれ別の神ではななくて同一の神のことをさしている。
呼び方が違うだけで、神は同じ。
ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は同じ神を信じている。
他の神の存在は認めないけど、天使の存在なら認めている。
イスラーム教では、天使ジブリールがムハンマドに神(アッラー)の言葉を伝えたとされている。
これは、天使ジブリール(英語だとガブリエル)からアッラーの啓示を受けるムハンマド(ウィキペディアから)
一神教に対して、ヒンドゥー教と日本の神道は、ザ・多神教。
神道には「八百万(やおよろず)の神がいる」と言われている。
これは800万ということではなくて、「数の限りなく多いこと(デジタル大辞泉)」という意味。
これはヒンドゥー教も同じ。
ヒンドゥー教にも数え切れないほどの神がいる。
「でも根源的にはヒンドゥー教の神は1つだけ」という考え方もあるけど、これは一般的なものではない。
神道もヒンドゥー教も多神教で、最高神がいる。
それぞれ、天照大神とシヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーがいる。
「宗教は、多神教から一神教へと段階的に進化する」という考えがあるらしい。
多神教には最高神が生まれる。
その最高神が他のすべての神の力を吸収して、さらに強大な絶対神へとなっていく。
絶対神にはなれば他の神は必要なくなる。
それで他の神が消えて、一神教へと変わっていく。
こんな宗教の進化論みたいな話を何かの宗教本で読んだ。
どの本か思い出せない。
4、特定の経典を持っていない。
キリスト教やイスラーム教には聖書(バイブル・クルアーン)がある。
でも神道とヒンドゥー教にはそんな経典がない。
世界史では「ヴェーダ」「マヌ法典」「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」といったものを習うけど、これらはヒンドゥー教の経典というわけではない。
神道も同じ。
「神道には経典がないから教義は存在しない」といったことを司馬遼太郎氏が書いている。
開祖・教義はなく、この島国の古代人が、例えば『地面にある岩に奇異を感じて、畏れを覚えればすぐに、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れて穢さぬようにした。』これが神道だった。むろん、初期の頃は社殿などなく、後世に仏教が伝来して、はじめて、それをまねて社殿ができた。
「司馬遼太郎 この国のかたち 5 (文春文庫)」
「神社という建物は、仏教の寺を参考にして建てられるようになった」ということも興味深い。
もともと神道には、今の神社のような建物はなかった。
5、罪とケガレ、祓いの考え方
夏が近づく6月になると、神社にこんな茅の輪(ちのわ)をよく見る。
正月から6月までの半年の間、心身にはいろいろな罪やケガレがついてしまうが、この茅の輪(ちのわ)をくぐれば、それを祓うことができる。
そいて、その後の健康や安全を願う。
茅の輪は神道の大祓(おおはらえ、おおはらい)のひとつだ。
神道では罪やケガレと祓いの考えをとても重要視する。
それはヒンドゥー教も同じだ。
「体や心についた罪やケガレを取りのぞく」という考え方は、ヒンドゥー教でもとても重視されている。
もちろん、ヒンドゥー教の罪とケガレの性質は神道のものとは違う。
インドの北部にガンガー(ガンジス川)という川が流れている。
ヒンドゥー教徒は下の写真のように、聖なるガンガーで沐浴をする。
ヒンドゥー教徒がガンガーで沐浴をする目的は、聖なる川の水の力によって、心身についた罪やケガレを落とすため。
茅の輪(ちのわ)くぐりもガンガーでの沐浴も、本質的な目的は同じ。
罪やケガレをはらって、心身をキレイにするため。
神道もヒンドゥー教も「浄化(祓い)」という考えをとても大事にしている。
ケガレや罪を落とすために、ガンガーの聖水にからだをつけるという考えはわかりやすい。
でもヒンドゥー教では罪やケガレを洗い流すために、牛のおしっこをからだにかけることがあった。
ヒンドゥー教で牛は神格化されて、「聖なる生き物」になっている。
ヒンドゥー教徒にとって、そんな聖獣のおしっこはガンガーの水と同じように聖水となる。
だからその聖水をからだにかければ、ケガレを消すことが出来る。
こんな考え方がむかしのヒンドゥー教徒にはあった。
イギリスからインドに帰国したガンディーもこの儀式をやっている。
「外国(イギリス)にいたおまえのからだには、罪やケガレがたくさんついてしまった。だから、牛の尿をからだに浴びてそれらを洗い流せ」
そんなことをまわりの人たちから言われて、ガンディーはイヤイヤながらこの儀式をしていている。
このケガレの祓い方は神道とはまったく違う。
車にお祓いをするのは神道だけ。
「おい、あれは。何をやってんだ?」と聞いたイギリス人にわけを話すと驚いていた。
おまけ
聖なる牛とガンガーの動画
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