はじめの一言
「19世紀末の朝鮮(ソウル)の様子」
「山の斜面には簡素で地味な白い木造の日本公使館があり、その下には茶屋、劇場をはじめ日本人の福利に不可欠なさまざまな施設を備えた、人口五〇〇〇人の日本人居留地がある。ここでは朝鮮的なものとはきわめて対照的に、あくまで清潔できちょうめんで慎ましい商店街や家々が見られる。(イザベラ・バード 明治時代)
「朝鮮紀行 講談社学術文庫」
これは現在の明洞(ミョンドン)の辺あたり。
今回の内容
・韓国人の日本へのイラ立ち
・日本の伝統文化の伝え方
・韓国人の日本へのイラ立ち
始めに、前回の話をチョイとさせて。
16世紀に、朝鮮(韓国)から日本へ磁器をつくる技術が伝わった。
すると、日本人がそれに変化を加えて、日本独自の有田焼を生み出した。
その有田焼の素晴らしさは世界に認められて、高い評価を受けている。
でも、日本の文化が世界から称賛を浴びると、別の問題が生まれる。
韓国人としては、それを素直に喜べない。
韓国の大手新聞「中央日報」にこんなコラム(2013年12月20日)がある。
一方で、こういう思いが浮かんだ。
壬辰倭乱当時に日本に連行されなかった陶工が朝鮮の地にはるかに多くいたはずだが、なぜ朝鮮の陶磁器産業は大きく発展せず世界的な名声を得ることもできなかったのか、子孫にきちんと伝授されなかったのか、先祖を恨めしく思ったりもした。切ない質問を投じる。
当時朝鮮に残った数多くの陶工のうち、私たちが記憶する人は果たして一人でもいるだろうか。
あれ?
前回の記事にあった「韓国は常に中国と肩を並べ、世界屈指の陶磁文化の国という地位を確立してきました(韓国陶磁器財団)」の話と違うぞ。
ということは、武士の情けで問わないことにしよう。
韓国人には、このジレンマがある。
自分たちが進んだ技術を持っていてそれを日本に伝えたのに、現在では日本の伝統文化の多くが「世界的な名声を得る」ことに成功している。
でも、この韓国人記者は良心的だ。
「なぜ朝鮮の陶磁器産業は大きく発展せず世界的な名声を得ることもできなかったのか」
という不満を、「先祖を恨めしく思ったりもした」と先祖に向けている。
韓国人の中には、「豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたせいで、朝鮮半島がめちゃくちゃになったから」と、強引なこじつけをして日本人に恨みを向ける韓国人もいる。
「いる」というか、かなり多いと思う。
・日本の伝統文化の伝え方
先ほどのコラムの疑問「なぜ朝鮮の陶磁器産業は大きく発展せず」の答えは、いくつかある。
その一つに、「子孫にきちんと伝授されなかったから」ということがあるだろう。
日本の場合は、ものづくりの知識や技術が父から子へ代々伝えられてきた。
その具体例が、前回の記事で出た14代目「金ケ江三兵衛」や15代目「酒井他柿右衛門」になる。
他にも、14代目「今右衛門」もいる。
この人は、江戸時代に独自の鍋島焼の技法を完成させた「今右衛門」の子孫にあたる。
韓国をみた場合、こうした「朝鮮白磁の伝統を受け継ぐ14代目~」といった存在がいない。
それどころか、「当時朝鮮に残った数多くの陶工のうち、私たちが記憶する人は果たして一人でもいるだろうか」という状態で、朝鮮時代には歴史に残る名工がいなかったようだ。
世界をみれば、日本みたいに「14代目~」といった数百年続いている職人が、数多くいることが珍しい。
何百年もの間、父から子へと技術や知識が引き継がれることが広く行われているところは、世界でもそうないだろう。
これは、日本に特徴的なことだとは思っていた。
けど、「なんでそうなったのか?」ということは分からなかった。
前の記事の内容と重なってしまうけど、それが奈良時代の天皇の命令(詔勅)に関係しているんじゃないのかな?
奈良時代にはすでに家芸を父子相伝する習慣があったと考えられている。
白鳳13年(684年)に歌男・歌女・笛吹者は子孫に伝えて歌笛を習わしめよという詔勅があり、下って宝亀9年(778年)には「家々の伝受の秘説」を集めた(『教訓抄』)という記事があるため、この頃には父子相伝の秘曲が存在していたと思われる
(ウィキペディア)
「家芸を子ども伝えよ」ということを国家が政策としてすすめてきて、その考えが一般に広く伝わっていったのではないか、とボクは考えているんだけどね。
先ほどの韓国人記者のコラムからは、韓国(朝鮮)には、こうした考えがあったようには思えない。
このことは、日本と韓国の「技術」や「職人」に対する考え方や価値観の大きな違いでもある。
ちなみに、先ほどの韓国人の「文化ジレンマ」については解決策はある。
韓国と日本を比べなければいい。
おまけ
先ほどの韓国人のコラムリストは、「朝鮮の陶磁器産業は大きく発展せず世界的な名声を得ることもできなかった」と悲観的に言っていた。
けれど、朝鮮の美術品には優れたものがあった。
日本人の柳宗悦(やなぎ むねよし)は、朝鮮の陶磁器を高く評価し、かつ愛していた。
彼は1924年に、現在のソウルに朝鮮民族美術館を設立している。
また、景福宮の光化門が取り壊されそうになると、これに猛烈に反対したのも柳宗悦だった。
この柳宗悦の抗議で、光化門は移築して保存されることになった。
柳宗悦が守らなかったら、光化門はなくなっていただろう。
今回の復習
・19世紀末のソウルで、日本人街があったのは現在のどのあたり?
・朝鮮の芸術品を高く評価し、ソウルに朝鮮民族美術館を設立したのはだれ?
・また、彼が守った王宮の門は?
答え
・明洞(ミョンドン)の辺り。
・柳宗悦(やなぎ むねよし)
・光化門
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