はじめの一言
「みんな善良な人たちで、私に出会うと親愛の情をこめたあいさつをし、子供たちは真珠色の貝を持ってきてくれ、女たちは、籠の中に山のように入れてある海の無気味な小さい怪物をどう料理したらよいか説明するのに一生懸命になる。根が親切と真心は、日本の社会の下層階級全体の特徴である。(アンベール 幕末)」
「逝き日の面影 平凡社」

今回の内容
・なんで、日本と差がついたのか?
・日本の「天下一」という人びと
・なんで、日本に住むことを選んだのか?
・なんで、日本と差がついたのか?
以前の記事で「なんで、日本とこんなに差がついてしまったのか」という韓国人の嘆きを紹介した。
16世紀以後、韓国(朝鮮)では、陶磁器産業が大きく発展することがなかった。
一方で、日本では有田焼という世界的に高い評価を受ける磁器をうんでいる。
日本に磁器をつくる技術をもたらしたのは、朝鮮人だったのに。
何度も書いてきたけど、それが韓国の大手新聞「中央日報」の2013年12月20日のコラム。
下の「壬辰倭乱(じんしんわらん)」というのは、豊臣秀吉のよる「朝鮮出兵」の韓国での呼び方。
一方で、こういう思いが浮かんだ。
壬辰倭乱当時に日本に連行されなかった陶工が朝鮮の地にはるかに多くいたはずだが、なぜ朝鮮の陶磁器産業は大きく発展せず世界的な名声を得ることもできなかったのか、子孫にきちんと伝授されなかったのか、先祖を恨めしく思ったりもした。
切ない質問を投じる。
ここから、今までの記事で日本と韓国(朝鮮)の「ものづくりの違い」について書いてきた。

でも、日韓のものづくりの違いについては、16世紀に日本に来た朝鮮人も気がついていた。
「来た」というか、捕虜として連れて来られたんだけど。
16世紀末に豊臣秀吉が朝鮮出兵をおこなったことは、中学の歴史の授業で習ったはず。
このときに日本に連行されてきたのが、姜沆(きょうこう)という人物。
姜沆
1567~1618朝鮮の官人・儒学者。慶長の役の時に連行される。藤原惺窩らの日本の儒学者に大きな影響を与えた。
(日本史用語集 山川出版)
姜沆が日本に滞在していたときに見聞きしたことが「看羊録(かんようろく)」に残っている。
この本では、姜沆(きょうこう)の「日本が憎い」という気持ちがいろんなところから感じられる。
まあ、捕虜として日本に連行されたんだから当然かもしれないけど。

朝鮮出兵をした豊臣秀吉については、「賊魁(ぞくかい)」と激しい言葉を使っている。
でも、秀吉を「賊魁」とする考えは、現在の韓国人もあんまり変わらないかも。
今の韓国人も、豊臣秀吉が大嫌い。
「ライブドアニュース」には、こんなページがある。
韓国人が最も嫌いな日本人の一人 16世紀に朝鮮出兵した豊臣秀吉

・日本の「天下一」という人びと
姜沆(きょうこう)はこの書で、日本の社会で韓国(朝鮮)とは違うところをあげている。
あらゆる事がらや技術について、必ずある人を表立てて天下一とします
木を縛り、壁を塗り、屋根をふくなどという、つまらない技にさえみな天下一があり、甚(はなは)だしくは、着署(署名)、表相(表装?)、花押(かおう)のようなものにまで天下一があ
(看羊録 東洋文庫)
ったという。
16世紀の日本では、優れた技術を持つ職人は「天下一」と称され尊敬されていた。
このことは、当時の朝鮮とは大きく違っていたようだ。
朝鮮では、「木を縛り、壁を塗り、屋根をふくなどという」ということは「つまらない技」にしか見えないが、日本ではこうしたものでさえ、卓越した技術があれば「天下一」として敬意を集める。
・なんで、日本に住むことを選んだのか?
この姜沆(きょうこう)の記述を読んで、一つの「謎」が解けた気がした。
姜沆と同じく、捕虜として日本に連れて来られた「李参平(りせんぺい)」という朝鮮人がいる。
有田焼はこの人から始まったとも言われていて、参平は「陶祖」と呼ばれている。
秀吉が亡くなったあと、朝鮮出兵は終わった。
次の徳川家康の時代になってから、日本は朝鮮と国交を回復した。
そのとき朝鮮政府は、朝鮮出兵のときに日本に連れて来られた朝鮮人を再び朝鮮に連れ戻そうとする。
しかし、李参平のように朝鮮へ帰ることを拒否して、日本に住む続けた朝鮮人もいた。
これがボクには不思議だった。
なんで、李参平は母国の朝鮮に帰らずに、日本に住むことを選んだのか?
すべては三平の意志次第で、朝鮮に戻ることは問題なくできたはずなのに。

これには、いろいろな理由があるだろう。
けれど、「優れた技術があれば『天下一』と尊敬される日本の社会でこそ、自分の才能を発揮できる」という考えがあったのではないかと思う。
実際、三平には優れた才能があり、その才能は日本でも高く評価された。
李参平はその功績を称えられ出身の錦江島の名をとり、日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と名乗る事を許されました。
この時代の日本人が、この金ヶ江三兵衛(李参平)に深い親愛の情や敬意があったことは、次のことからも分かる。
有田の行く末を見守りながら1655年8月11日初代三兵衛がなくなります。 同町内にある龍泉寺の過去帳に戒名が記されており、有田焼発祥の舞台となった上白川・天狗谷窯の近くに墓碑も創建されました。
このことは当時の日本ではとても稀な事で、最上級の手厚い庇護を受けていたことがわかります。
この「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」の14代目の子孫が、現在も有田焼を作り続けている。
ただ有田焼を生み出すためには、この李参平だけではなく他の朝鮮人の陶工も活躍していた。
「有田焼」は韓国からの技術を基礎に中国様式を取り入れ、日本独特の美意識によって発達した代表的な伝統工芸品です。
そして、その発達には朝鮮陶工たちが欠かせない存在でした。
ここに書いてあるように、「日本独特の美意識」も重要だった。
現在の韓国人が「なぜ朝鮮の陶磁器産業は大きく発展せず世界的な名声を得ることもできなかったのか」となげく原因には、16世紀の日本と韓国との職人に対する見方が違っていたことがあるだろう。
「あらゆる事がらや技術について、必ずある人を表立てて天下一とします」という日本の社会は、優れたものづくりの職人や伝統芸術を生み出す良い土壌になっていた。
これが現在まで続ているのだろう。

*有田焼について、ちょっと余談。
有田焼というのは、李三平がつくった白磁がそのまま有田焼になったのではない。
朝鮮から伝わった技術をもとに、「酒井他柿右衛門の赤絵」を加えるといった日本で独自の進化をして、有田焼が生まれている。
朝鮮伝来の磁器が「日本化」したものが有田焼になる。
おまけ
2016寝ん9月15日のRecord Chinaにこんな記事があった。
興味がある人は、読んでみて。
なぜ日本人が“匠の精神”を代表するようになったのか―中国メディア
記事は、“匠の精神”について、「現在、国の上層部から民間までが提唱する精神で、メディアもさまざまな形で称賛している。しかし、この精神を語っているといつの間にか日本人にたどり着く」とし、「なぜ“匠の精神”と日本人はこれほどまでに関連性が高いのか」と疑問を提起した。
こちらもどうぞ。
コメントを残す