はじめの一言
「日本人は世界でも際立つ興味深い民族で、しかも感謝の念は特定の個人にだけなく日本全体に強く感じます(シドモア 明治時代)」
今回の記事を書くために「近代インドの歴史 山川出版」を読んでいるとき、ガンディーの次のような言葉を見つけて驚いた。
「暴力は残虐な者のための法であるように、非暴力はわれわれのような者のための法なのです。しかし、『臆病と暴力の間の選択しかなかった場合、私は暴力を勧(すす)めます』
(近代インドの歴史 山川出版)」
ガンディーが暴力を勧めている。
本当にガンディーがこんなことを言ったのだろうか?
しかし、この言葉は他の本でもある。
「ガンディーは、こう言っている。『怯懦(きょうだ)か暴力か、二者択一を迫られたなら、私は暴力をのほうを勧めるだろう。・・・なぜなら、民族全体が去勢(きょせい)されるよりは、暴力に賭けるほうをよほどすぐれているからである』と」
(喪失の国、日本 文春文庫)」
間違いなく、ガンディーは暴力を勧めている。
しかも、「すぐれている」とまで言っている。
もちろん、「臆病である」よりは、暴力の方がいいと言っているだけで、無条件で暴力をすすめているわけではない。ガンディーがここで言う「臆病」とはおそらく、イギリスの命令に黙って従っている人間のことだろう。 ガンディーの著書に、それをうかがわせる言葉がある。
「法律が気に入らないにもかかわらず、それに従うような教育は、男らしさに反しますし、宗教にも反しますし、隷属の極みで
(真の独立への道(岩波新書)」
「臆病な人間が自分の気に入らない法律を破れるとでも思っているのですか?(同書)」
前にも書いたけど、ガンディーの「非暴力・不服従運動」は決して「無抵抗でいろ」ということではない。
逆で、ガンディーは暴力以上に、無抵抗を憎んでいる。
理不尽な命令に対して抵抗しないで、ただ従っている人間であるよりは「暴力をしてでも、抵抗する方がまだいい」として、暴力を勧めているようだ。
またウィキペディアよると、ナチスの支配下にあったユダヤ人についてガンディーがこんなことを話している。
1946年6月、ガンディーは伝記作者ルイ・フィッシャーにこう語っている。ヒトラーは500万人のユダヤ人を殺した。これは我々の時代において最大の犯罪だ。しかしユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差しだしたのだ。かれらは崖から海に身投げすべきだった。英雄的な行為となっただろうに
これもまた「本当にガンディーの言葉だろうか?」と思ってしまった。
でも、ガンディーの著書「真の独立への道 岩波書店」を読むと、ガンディーがその言葉と合う考え方をしているのが分かる。
「インドにイギリス人たちが自力でいられたのではなく、私たちがイギリスにインドをいさせたのです」
「イギリス人たちにインドを与えたように、私たちはインドをイギリス人たちに支配させているのです」
これらの言葉は「ユダヤ人がナチスに支配させているのです」ということを連想させ、「ユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差しだしたのだ」という言葉と重なる。
「私たちは自分の命を犠牲にしなければなりません」と、ガンディーは、自己犠牲を強く説いている。
この言葉も、「かれらは崖から海に身投げすべきだった」という言葉と矛盾はしていない。
ガンディーが「暴力を勧めている」ことや「ユダヤ人に自殺を示唆している」ということを知って驚いた。
ただ、これで驚くこともおかしいような気もする。
そもそも、ボクはガンディーのことを大して知っていたわけではない。
結局、ボクがもっているガンディーのイメージと実際のガンディーが合わなかっただけのこと。
実際のガンディーは社会運動家で、「インド独立の父と呼ばれている」「非暴力・不服従という理念を完成させた」という人。
このことから、ボクが勝手に「ガンディーは、インドを独立させた」と思ってしまったけd、実際には、「世界史用語集」にもどこにもそんなことは書いていない。
また後で触れるけど、そう考えてはいないインド人も多い。
ガンディーが「非暴力・不服従という理念を完成させた」ことや「その後の反政府運動や人権運動にも強い影響をあたえた」ということは間違いない。
ただ、ボクはそこから勝手にイメージをふくらませて、ガンディーが「絶対平和主義者だった」「暴力を何よりも憎んだ」と思ってしまった。
また、ガンディーは「ほとんどの場合、武器の力より慈悲の力がもっと強力です」と言っているように、慈悲の力がどんなときでも、もっとも強力だとは言っていない。
時と場合や相手によれば、慈悲より武器の方が強いということはガンディーも認めているのだろう。
おそらく、ナチスやポル・ポト政権がその例で、確かに、彼らに慈悲の力が通用したとは思えない。
前にインドで会った日本人旅行者が言った「人間ガンディー」という言葉が頭にひっかかっていたのだけれど、こうしたことだったのかもしれない。
結局、自分は実際のガンディーを「理解」していたのではなく、心に描いた聖人ガンディーを「信仰」していただけだった。
勝手にイメージをふくらませておいて、ガンディーの実際の言動を知ったら、「裏切られた」と思うのも身勝手な話だ。
とはいえ、前にも坂本竜馬にも同じような「裏切り」を経験している。 ボクにとっては、竜馬も、「イメージ先行」の人だった。
歴史上の人物だけではなく、人の一面を見て「裏切られた」と思うのは、最初から相手を理解していなかっただけだと思う。
相手は決して裏切っていないし、大抵の場合は、自分が勝手に相手のイメージをふくらませていただけだと思う。
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