アメリカ人と2泊3日で、京都の神社仏閣めぐりをした。
この間に、「これは、アメリカ人らしいな」と思ったことはいくつかある。
例えば、清水寺のこんな場面。
清水の舞台を見た後、彼女が「おみくじをしたいと!」言い出す。
それはいい。
キリスト教徒でもイスラム教徒でも誰でも、清水寺でおみくじをすることはできる。
ご本尊の観音菩薩も、きっと温かい目で見てくれる。
「いいよ、やんなよ」
とボクが言うと、彼女は「あんたもやりなよ」と言う。
正直そのときは、あまりおみくじをやりたい気分じゃなかった。
そういうときは、はっきりNOと言って断った方がいい。
アメリカ人は自分が嫌なときは、はっきりノーを言う。
逆に相手からノーと言われても、すぐに受け入れる。
「本当はイヤだけど、つき合いでやった」ということが後になって分かると、その方がかえって良くない。
だから、このときも「NO」と断った。
それにもかかわらず、「いいから、あんたもやりなよ」とボクのノーを受け入れない。
なんでだ?
「おみくじをひいて、どっちが良い結果か賭けようよ。負けた方が今日のランチをおごるの」
はあ?おみくじでランチを賭けるの?
つまり賭け事をしたいから、ボクにもおみくじをひかせようとしてるってことか?
「アメリカ人は、本当にギャンブルが大好きなんだね」
ボクがあきれると、彼女は「そうではない」と言う。
「楽しそうじゃない!まあ、確かにアメリカ人はギャンブルが好きだけど、それ以上に何でも楽しみたいのよ」
清水寺でギャンブルをするのも、お金や物が欲しいのではなく、「ジャスト・フォー・ファン(ただ楽しみたいから)」と言う。
日本人のボクとしては、清水寺で「ギャンブル」という言葉を聞くとは思わなかった。
さすが、「カジノの聖地」ラスベガスを生んだ国から来た人間の発想は違う。
というようなことを彼女に言うと、こんなことを言う。
「日本人からときどき、『アメリカ人はギャンブルが好きですよね』って聞かれるけど、アメリカのすべて州にカジノがあるわけじゃないわ。ギャンブルが合法な州と違法な州がある。例えば、ペンシルバニア州では違法とされているから、ギャンブルをしたいと思ったら、ペンシルバニアの人は、ニューヨークのカジノまで来てやるのよ。それに、知ってる?ニューヨークには、カジノは4か所しかない。カジノは規制がとても厳しいから、簡単には店を開けないの」
静岡県浜松市に住んでいるボクが、そんなこと知るか。
でも、おみくじの結果でギャンブルをすることになるとは、夢にも思わなかった。
「でも、日本でギャンブルは、法律で禁止されているんだよ」
とボクが言えば、彼女はこう返す。
「はあ?日本の法律で、ギャンブルが禁止されているなら、街中にパチンコがあるのはどういうこと?あれがギャンブルじゃないなら、あれは何なの?」
知るか。
「日本なら、どこでもパチンコ店があるじゃない。浜松市の中区だって、たくさんパチンコ店がたくさんあって、家から歩いて行けるじゃない。日本人の方がアメリカ人よりギャンブルが好きじゃないの?」
それも知らん。
でも、アメリカ人から見たら、あれはカジノになるのか。
「もちろん、カジノよ。日本のパチンコ店は店の外で換金するけど、アメリカのカジノは店の中で換金するという違いがあるだけ。何で店の外で換金すれば、ギャンブルにならないの?」誰が知るか。それより、早く「おみくじ合戦」をしようか。
結果は、ボクの負け。
ボクが日本人で仏教徒であるにもかかわらず。
昔、京都の大学に通っていて、京都市民だったのに。
「知ってる?京都の吉野家は日本で一番おいしいんだって」というボクのウソも一瞬で見抜かれ、1500円のランチをおごるハメになってしまった。
彼女だけじゃなくて、他のアメリカ人と付き合ってきた経験からいって、アメリカ人には、自分も他人も楽しませる「ジャスト・フォー・ファン」の発想というか精神が確かにあると思う。
ちなみに、先ほどの彼女は、「パチンコはギャンブルではない」ということが理解できないと言っていたが、それは他のアメリカ人も同じだった。
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