「京都に行ったら、お寺や神社で自分が欲しいお守りを買う」
日本人にとって、これは当たり前。
でも、こんな日本人の普通が、キリスト教徒(プロテスタント)である彼女には不思議に見えるらしい。
その理由を聞いていると、日本人とキリスト教徒とでは、宗教に対する考え方がまるで違うということが分かってきた。
まあ、当たり前といえば、当たり前のことだけど。
このことが、アメリカ人と行った京都旅行での一番大きな「収穫」だったので、今回から、それをテーマにして記事を書いていきたい。
キリスト教徒のアメリカ人から見ると、日本人が宗教に対してどれだけ独特な考え方をしているのかも分かると思う。
「中学校の生徒に、高校合格のお守りを買ってあげたいけど、どこで買えばいい?神社かお寺なら、どっちがいいの?」と、彼女に聞かれた。
「どっちでもいいよ。自分が買いたいところで買えばいい」
と、適当に答える。
ここで、ちょっと注意。
お守りに「買う」という言葉を使うのはと、本当はよくない。
お守りは金銭での売買はできず、本来は、布施をすることで寺社から「授かる」ものだという。
ちなみに、タイでも聖なる仏像はお金で売買できるものではないため、「買う」とは言わずに「借りる」と言うらしい。
「買いたいところなんて分からない。日本の中学生だったら、どこがいいの?」と彼女が聞く。
「『学問の神』としては、北野天満宮が有名かな。そこの神様は、とても有名で、たくさんの受験生が合格祈願に行くよ。でも、今回はそこには行かないけどね」とボクが答えると、「じゃあ、言うなよ」という顔をする。
彼女がその中学生に、どこで買って欲しいか聞いたところ「どこでもいいです。八橋の味のキットカットでもいいです。食べたことないから」と言われて、困ったという。
キリスト教徒の彼女には、「どこのお守りがいいか?」なんてことを選ぶ基準がない。
でも、ボクもそんな基準は知らない。
「お寺と神社なら、どちらが良いか?」「お寺にしてもな、どの宗派のお寺がいいか?」なんてさっぱり分からない。
「知名度」からいえば、金・銀・清水寺か?
でも、その中学生はすでに修学旅行で京都に来ている。
その辺のお守りは、もう持っているかもしれない。
京都で「ご利益NO1のお守り」というのが「るるぶ」に載っていたらいいのに。
いいじゃん、キットカットで。
「きっと勝つ」にもつながるし。
普段は意識しないけど、改めで聞かれると、お守りを選ぶ「基準」というのはやっぱり分からない。
寺や神社ごとに「合格率」を発表してくれたら分かるけど、そんなことできるはずがない。
極端な話、どの寺や神社でもお守りは変わらない。
だから、その中学生が好きそなうなデザインで選べばいい。
そもそもお寺や神社の方も、参拝者がお守りを買うときに、その人の信仰心なんて問題にしていないはず。
金閣寺には「『金閣寺限定』キティちゃんお守り」が売ってるし。
「~寺限定」というのは、他の寺でもよくある。
他の寺社との差別化をねらったものだろうけど、どうもお金のにおいがしてくる。
今日これから行くところは清水寺と三十三間堂で、どちらも本尊が観音菩薩だ、ということを彼女に伝える。
「もう、その観音菩薩でいいわ」と言う。
「でも、清水寺の観音菩薩と三十三間堂の観音菩薩はどんな違いはあるの?どっちでお守りを買った方がいい?」
知るか。
観音菩薩に「上」も「下」もあるか。
結局、彼女は三十三間堂でお守りを買うことになった。
うす暗いお堂の中で、びっしりと立ち並ぶ千手観音菩薩像に強烈な印象を受けたらしい。
「でも、考えたらちょっと変ね」
お守りを手にして彼女が言う。
「日本には、たくさんのお寺や神社があるけど、日本人がお守りを買うときは、自分が行きたいところに行って、欲しいお守りを買うんでしょ?」
そうだけど。
初詣も好きなところに、都合の良い日に行くけど。
「それって、人が神や仏を選んでいることにならない?」
はあ?
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