はじめの一言
「家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇をとりだし、まるまる一時間も私を煽いでくれた。代金を尋ねるといらないと言い、何も受け取ろうとしなかった。
(イザベラ・バード 明治時代)」「逝き日の面影 平凡社」
今回の内容
・則天武后ってどんな人?
・日本の国名を認めた中国皇帝
・則天武后ってどんな人?
日本という国と則天武后には、ふか~い関係があるんです。
という前に、「則天武后(そくてんぶこう)って誰?」という人もいるかも。
ちょいとご紹介します。
武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。
(ウィキペディア)
則天武后が有名なのは、なんといっても「女帝」ということ。
中国4000年の歴史の中で、皇帝になった女性はこの人ただ一人。
中国ではその点を意識して「武則天」と呼んでいる。
日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。
一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている(ウィキペディア)
「サントリー」は漢字で「三得利」になる。
歴史小説家の陳舜臣氏は、則天武后の「政治家」としての才能を評価している。
武則天は女であり、妻であり、母であり、祖母である以上に、政治家であったといえるでしょう。
(中国五千年 下 陳舜臣)
じゃ、則天武后は「政治家」として具体的になにをしたのか?
というと、こういうことをしていた。
長年の課題であった高句麗を滅ぼし唐の安定化に寄与した事実は見逃せない功績である。また、彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、民衆の生活は安定していたとされる。
(ウィキペディア)
高句麗を滅ぼしたというのはスゴイね。
というのは、唐の前の王朝だった隋は高句麗に4回も攻め込んだけど負けていたんだ。
その高句麗を倒すというのは、皇帝としてはすばらしい業績だ。
また、則天武后が亡くなった後、唐は「開元の治」と呼ばれる時代を迎える。
この「開元の治」は、後世の中国人から「素晴らしい時代だった」と賞賛された時代。
そんな時代をむかえたのは、「則天武后がいなくなったから」ではなくて彼女がそんな時代をつくり出せるような人材を育てたから。
武則天のあと、開元、天宝の盛唐期が訪れますが、盛唐期に活躍した人材には、武則天が養成した者が少なくありません
(中国の歴史 下 陳舜臣)
則天武后は自分の子や孫を殺した残酷な女帝だったけど、政治家としては、非凡な才能があった。
則天武后(ウィキペディア)
でも、中国史上ただ一人の女帝となるだけあって、気性は激しかったらしい。
血を分けた子や孫でも殺すのですから、彼女の性格は正常とはいえないでしょう。
密告が奨励され、密告の内容が事実でなくても処罰されないという規則がつくられました。じつにいやな時代であったといわねばなりません。
(中国五千年 下 陳舜臣)
じつは則天武后は「中国三大悪女」の一人。
自分の子を殺したというのが、「悪女」になった理由。
他にも、こんなひどいことをしたらしい。
中国史上、唯一人の女帝である武則天も、亡夫高宗の寵愛を争った王氏(前皇后)・蕭氏(前淑妃)両名の四肢を切断後、「蟒」・「梟」と無理やり改名させるという恥辱を与え、処刑したとされる
(ウィキペディア)
陳舜臣氏の文には「じつにいやな時代であったといわねばなりません」と書いてあるけど、1960年代の文化大革命のときも、こんな密告制度はあったけどね。
あのときも嫌な時代だったはず。
さて、政治家としてはどちらが良いだろう?
素晴らしく良い性格をもっているけど、政治的な能力はない。 政治的な能力はあるけど、残忍な性格の持ち主。
ボクが近くにいなかったら前者がいいな。
こんな女帝は日本とどんなかかわりがあったのか?
北京にある王宮
・日本の国名を認めた中国皇帝
日本との関係についていえば、則天武后は「初めて日本を知った中国皇帝」になる。
日本は7世紀ごろに、国名を「倭」から「日本」に変えている。
「日本」という国号が国際的に認知されるのは七〇一年任命の大宝度(たいほうど)の遣唐使の時であり、六七〇年の遣唐使の際には『倭国』を称していたようであるから、倭国から日本へ国号が変更されたのも、この天武・持統朝頃であったと考えられる
「『日本』国はいつできたか (大和岩雄)」
それまでの遣唐使が中国に渡していた外国文書には、国名を「倭」と書いてあった。
でも、この701年の「大宝度の遣唐使」が中国皇帝に渡した文書はちがった。
このときに初めて、国名として「日本」と書いてあった。
だから、則天武后は外国文書にある「日本」という国名を初めて見た中国皇帝になる。
そのことを別の本からも見てみよう。
中国側は倭国が国号を変更して日本国と称していたことを知らなかったのだ。 この倭国から日本国への国号の変更を認知してもらい、日本国の名称が国際的承認を得た
「遣唐使の光芒 (森公章)」
上の2つの文で重要なことは、このこと。
・『日本』という国号が国際的に認知される
・日本国の名称が国際的承認を得た
それまでの「日本」という国名は、日本国内で日本人が使っていただけのものだった。
中国の皇帝である則天武后が、「国名が倭から日本に変わった」ということを受け入れたことで、初めて日本という国名が国際的に認められることになったわけさ。
当時の日本にとっての「国際」とは、中国を中心とする東アジアのこと。
これで「世界の中の日本」が誕生することになる。
京都御所
もし、則天武后がこう言ってたら?
「はあ?何で勝手に国名変えちゃってるの?ダメ、そんなん、認められない」
則天武后が「日本」という国名を認めなていかったら、日本はどうなっていたか分からない。
ひょっとしたら、日本人がもう一度国名を考え直して、「日本」ではなくて別の国名にしたかもね。
だから、則天武后は日本にとって大事な皇帝になる。
日本の「恩人」といっていい女帝だと思うよ。
次回も、則天武后と日本のことについて書きます。
おまけ
中国の紫禁城。
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