「日本人は自由にお守りを買ったり初詣に行ったりする。私にはそれが、ちょっと変な気がする。それって『自分中心』じゃない?」
とアメリカ人から質問されたのだけど、答えられなかった。
そんなことを、考えたこともない。
では、アメリカ人はどうなのか?
「アメリカ人が試験や仕事の成功を祈ることがあったら、自分の信仰する宗教の施設に行くわ。キリスト教徒なら教会、イスラム教徒ならモスク(イスラム礼拝所)。だから、『宗教に関係なく、自分の好きなところでお守りを買う』というのは、結局、『人が神を選んでいる』ってことじゃない?」
そうかもしれない。
アメリカだけじゃなくて、世界では普通、自分の信仰する宗教の施設に行くだろうね。
何か願いごとをするとき、キリスト教徒がモスクに行ったり、イスラム教徒がキリスト教の教会に行ったりすることは考えられない。
そういう視点からすれば、確かに「日本人は神や仏を選んでいる」ように見える。
日本でも「自分の宗派以外のお寺には行かない」という人がいたけど、これは例外。
ほとんどの日本人はお寺や神社、買いたいお守りは、自分が選んで決めている。
ボクの場合、宗教は仏教の曹洞宗だけど、それを意識したことはない。
仏教や神道という宗教の違いも、仏教の中の宗派の違いも関係ない。
行きたいところに行って、欲しいお守りを買っている。
これは、アメリカ人にはなじみがない考え方だという。
彼女の話を聞いていると、まず、キリスト教の「GOD」と日本の「神」はまるで違う存在であることが分かった。
キリスト教(プロテスタント)の彼女にとっての「GOD」は、「この世界のすべてをつくった絶対的な存在」であるらしい。
そして人間もまたGODによって造られたもので、GODの前では、人は本当に本当に小さな存在であるという。
日本の「神」とキリスト教の「GOD」は確かに違う。
このことはキリスト教の解説書にも書いてある。
「聖書のことがよくわかる本 鹿嶋 春平太」では、「GODを『神』と勘違いしてはいけない」という章でこう書いてある。
バイブルでのゴッドはそういう漠然としたものではない。『この世のすべての存在を造った創造主』と、意味が限定されている。意味が限定されているにもかかわらず、ゴッドを『神』と呼んでしまうと、バイブルでいうゴッドも、われわれ日本人の感覚で認識してしまう
さっきも書いたけど、キリスト教でいう「ゴッド(神)」は、この世のすべてを造った創造(Creater)のこと。
その意味に限定されているという。
これは、日本の「山の神」や「商売の神」といったものとはまったく別の存在だ。
この文の中の「創造する(この世のすべての存在を造った)」という考えは、日本ではあまりなじみがない。
だから、どういうものかつかみにくいと思う。
「GODが創造する」ということについて、もう少し詳しく見ていこう。
『創造する』って、どういうことか。わかりやすいのは、モノです。モノは、つくることができて、壊すこともできる。所有したり、好きにできる。モノは、つくったひとのもの。つくった人の所有物なんです。Godが人間を『創造した』のなら、Godにとって人間は、モノみたいなもの。所有物なんです。
つくったGodは『主人』で、つくられた人間は『奴隷』です。人間を支配する主人が一神教の『God』なんですね
(ふしぎなキリスト教 講談社現代親書)
キリスト教では、GODにとって人は「モノ」であり「奴隷」。
こういう考えがあるから、彼女は「GODの前では、人は本当に本当に小さな存在」という認識をもつようになったのだろう。
神をこうした絶対的な存在だと考えていれば、「どこに行って、何のお守りを買おうかな?」と日本人が考えることは、「どの神(仏)にしようかな?」というように見えてしまう。
そうしたら、「人間が神を選んでいる」と思っても不思議ではない。
GODを「創造主」と考えている人にとっては、こういう日本人の発想は自己中心的であったり、不遜に感じたりするのだろう。
いくら、人間に権利や自由が認められていても、「人間が自由に神を選ぶ権利」なんてのは、キリスト教の世界にはない。
イスラム教にユダヤ教にもない。
キリスト教徒にとってGOD(創造主)がどのような存在かは、大まかなイメージがつかめたと思う。
では日本人にとって、神とはどんな存在なのか?
日本には「八百万(やおろず)の神々」と言われるほど、数えられないほどの神がいる。
山や川の神がいれば、トイレの神も貧乏神もいる。
でも日本には、この世のすべてを造った「創造主」という神はいない。
この創造主の考え方からすれば、ローマ法王もアメリカ大統領も周近平主席も神によって「造られた」ことになる。
こういう意味での「神(創造主)」は、仏教や神道のなかにはいない。
日本人にとって日本の神様は、GODよりも人間に近くて親しみのある存在だ。
稲荷神社を「お稲荷さん」と言ってもいい。
ボクが京都に住んでいたときは、清水寺を「清水さん」と呼ぶ人もいた。
日本では、神や仏がいる寺社に親しみの気持を込めて「~さん」と呼ぶことは広く行われている。
それは、日本で最高位とされる伊勢神宮も同じ。
「お伊勢さん」と呼んで何の問題もない。
伊勢神宮のHPには、次のようにある。
「『お伊勢さん』『大神宮さん』と親しく呼ばれる伊勢神宮は、正式には『神宮』といいます」
伊勢神宮を「さん付け」で呼ぶことは普通。
決して、おかしいことでもいけないこともない。
もちろん、キリスト教徒やイスラム教徒にとって、教会やモスクが近寄りがたい場所とは思わない。
でも日本人のように、「~さん」と擬人化して呼ぶような親しみはないだろう。
日本では、ある分野で優れた才能があれば「野球の神」と「~の神」と呼ばれて、神になることができる。
「神サイト」と「~は神!」という言葉もある。
このように気軽に神の名を用いることは、キリスト教やイスラム教では許されない。
日本人にとっての神は人を越えた存在で、敬意を払うべき対象だけど、キリスト教のGODとは違う。
人のはるか上にい存在ではなく、親しみや愛着を感じるような人間に近いものだと思う。
「神は人に近く、親しみがある存在だ」という考えをもっていると、先ほどのキリスト教でのGODの認識はちょっと受け入れにくい。
人間は神にとって、「モノみたいなもの」「所有物」「奴隷」であると聞くと、抵抗感を覚える日本人も多いと思う。
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