【韓国の職人】16世紀の朝鮮人が見た日本のものづくり

 

今回のテーマは、外国人の視点から見た「日本のものづくり」について。

ということでまず初めに、明治時代の日本にやって来た外国人で、日本のものづくりや職人に注目した人たちの言葉を紹介しよう。
これはアメリカ人女性のシドモアの感想だ。

着色法、彫刻技術、青銅の象眼細工術に関して、日本人は他に追随を許しません。しかし、この偉大な日本金属工芸研究のために、民族美術研究家は個人コレクションや目利きの骨董商の宝を訪ね歩かなくてはなりません。

「シドモア日本紀行 (講談社学術文庫)」

 

国籍は分からないけど、日本を見てこう思った欧米人がいる。

日本人の天才的資質は、小さな物において完全の域に達する。茶碗、御分、湯わかしをも美術品に作りあげる方法、(中略)一瞬の間に浮かんでは消える思想を表現する方法―これらを日本人の半分もよく知っている国民はいない
(チェンバレン)

精巧で芸術的な多くの作品がある。が、日本人にとってはあくまでも、日用品にすぎない。(テオドール・デュレ)

日本の職人は、本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです。自分の手仕事が認められなくても、美しく作らざるをえないのです。
(アリス)

以上3つは「逝きし世の面影 (平凡社)」から。

 

では次に、16世紀の朝鮮人の視点から、日本でものづくりや職人が育った背景を見ていこう。
このときの日本には、朝鮮(韓国)にはなかった「天下一」という考え方があったのだ。

 

 

4月に「日本の中の韓民族史探訪」というツアーがあったらしい。
韓国の小・中・高校の先生243人が参加している。

中国人が「日本の中の漢民族探訪というツアーをした」というのは聞いたことがない。
これはとても韓国人らしい発想だ。

 

このツアーで、韓国の先生たちは九州の有田市を訪れている。
ここには、有田焼の開祖とされる李三平の子孫がいるから。

現在の李三平は14代目。

初代李三平は、16世紀、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに日本へ連れてこられた。
日本に来た李三平はそのまま帰化して、「うっかり八兵衛」じゃなくて、「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」という日本人名を名乗ることになる。

朝鮮に戻ろうと思えば戻れたのだけど、彼は日本に住むことを選んで、陶芸作りに没頭。

 

このツアーのことが朝鮮日報のコラム( 2018/06/03)に書いてある。
「この時代の韓国人は、日本に進んだ文化を教えてあげた」ということではなくて、コラムでは、韓国にはこんな優れた陶工がいなかったことに思いをめぐらせている。
李参平が日本にわたらず朝鮮にいたら、歴史に名を残すことはなかっただろうという。

その名が歴史に残った可能性はほとんどない。寡聞のせいでもあるが、朝鮮の陶工で名を残した人物というのは思い当たらない。

「もし陶工が朝鮮に残っていたら」

 

なんで朝鮮には、偉大な陶工が生まれなかったのか?

前にその理由を、「豊臣秀吉の侵略があまりに激しかったから」とか「日本人が才能ある職人を連れて行ってしまったから」とする文を見たことがあるけど、このコラムの分析は冷静だ。

産業を「末業」と見なして権力闘争に没頭し、朝鮮の「李参平」を育てられなかった韓国側のせいというべきだ。

 

たしかに。
この時代の朝鮮には、職人を大切にする文化がなかったからだろう。

韓国人の友人も「韓国には老舗がない」と言っていた。
もちろんゼロではないけれど、日本のように数百年前から続く和菓子屋みたいな店は、韓国にはほとんどない。
その韓国人の意見では、その理由は韓国にあった「士農工商」の考え方にあって、ものづくりをする人間は高い評価を受けられなかったからだという。

ちなみに韓国でいう士農工商の「士」は武士ではなくて、科挙試験に受かった両班という身分の人間のこと。
両班は今でいえば国家公務員になる。

 

 

朝鮮出兵にときには、他にも日本に連れてこられた朝鮮人がいる。

高校の日本史で習う「姜沆(きょうこう)」もその一人。

姜沆
1567~1618

朝鮮の官人・儒学者。慶長の役の時に連行される。藤原惺窩らの日本の儒学者に大きな影響を与えた。

「日本史用語集 (山川出版)」

 

「看羊録(かんようろく)」という本に、姜沆が日本で見聞きしたことが書いてある。

このなかで姜沆は、日本の社会にあった「天下一」という考え方に注目した。

あらゆる事がらや技術について、必ずある人を表立てて天下一とします

木を縛り、壁を塗り、屋根をふくなどという、つまらない技にさえみな天下一があり、甚(はなは)だしくは、着署(署名)、表相(表装?)、花押(かおう)のようなものにまで

「看羊録 (東洋文庫)」

 

そのようなものにまで「天下一」があったという。

 

当時の日本には、優れた職人に「天下一」と最高の敬意をはらう文化があった。
姜沆(きょうこう)は、ここが朝鮮とは違うと指摘する。

朝鮮日報のコラムは、李三平が朝鮮に帰らなかったことに触れ、「陶祖が故郷に戻らなかった理由があるのだろう」と書いている。
16世紀の日本を見た姜沆の言葉がそのまま理由になる。

この時代の日本はものづくりを「末業」と見なすことはなく、高く評価して職人を大事に育てる考え方があった。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。