今回の内容
・「靖難(せいなん)の役」
・北京をつくった永楽帝
・「靖難(せいなん)の役」
前回、1221年に起きた承久の乱について書いた。
後鳥羽上皇が「北条義時を討て!」という命令をだす。
対する鎌倉幕府も軍を出して朝廷の軍と戦う。
でも、幕府の敵は後鳥羽上皇ではない。
敵は上皇のまわりにいる「悪いやつら(君側の奸)」で、その人たちを討とうとした。
結果は北条泰時がひきいる鎌倉幕府の軍が勝って、3人の上皇を島流しにしてしまう。そして泰時は、鎌倉に戻ってしまう。
倒幕の動きがあるかを監視するために、京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)をおいたけどね。
ここが中国とはちがうところ。
中国なら、京都を制圧したあと天皇を倒して北条義時が天皇になっていたんじゃないかな?
中国の歴史でも、この承久の乱にように「君側の奸を討つ」ということを理由に皇帝側と戦ったことがある。
それが明の時代におきた「靖難(せいなん)の役」というもの。
これは、1399年に燕王(えんおう)が明の皇帝(建文帝)に対して起こした争い。
このとき、燕王は「君側の奸を討つ」ことを挙兵の理由にしている。
「皇帝は悪くない。けれど、皇帝のまわりに悪い人間(君側の奸)がいる。だから、そいつらを討つ!」というもの。
北京の王府には朝廷から派遣されたお目付役がいますが、それを殺しての挙兵で、「君側の奸を除く」とい名目をかかげたのです。(中略)この反乱軍を、燕王は「靖難軍」と称しました。難(君側の奸)を靖(きよ)めるという意味に他なりません。
(中国の歴史 下 陳舜臣)
この争いは燕王側が勝っている。
でも、そのあとが承久の乱とはちがう。
燕王は「君側の奸を除く」と理由で兵をあげていた。
であれば「君側の奸(皇帝のまわりにいる悪いヤツラ)」を倒すはずなんだけど、燕王はそのまま皇帝(建文帝)を倒してしまって自分が新しい皇帝になっている。
それが明の3代目の皇帝「永楽帝(えいらくてい)」。
永楽帝(1360~1424)
靖難の役に勝利して即位し、宦官勢力を重用しつつ皇帝独裁の強化をはかった。対外関係ではモンゴル遠征、ベトナム出兵、鄭和の南海派遣、朝鮮・チベットの服属化など、積極的な政策を進めた。
(世界史用語集 山川出版)
承久の乱では、「君側の奸を討つ」という理由で挙兵して、勝利したあとは別の天皇をたてて自分は元の鎌倉に帰っていった。
靖難の役では「君側の奸を討つ」という理由で挙兵して、勝利したあとは自分が皇帝になっている。
これが日本と中国の歴史のちがいなんだろうね。
・北京をつくった永楽帝
永楽帝は自分が皇帝になってから、明の首都を南京から北京に移している。
天壇を建てたり紫禁城をつくったりしたのは、この皇帝。
現在の万里の長城をつくったのもこの皇帝。
もう、今の北京をつくった皇帝といっていいでしょ。
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