はじめの一言
「(日本の感想)平野は肥沃で耕され、山にはすばらしい手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さにまで伸びている。住民は健康で、裕福で、働き者で元気がよく、そして温和である。(オールコック 「逝きし世の面影」)」
記事の上の写真は、ご存じ、イギリスの国旗(ウィキペディア)。
これが、この世界からなくなりそうになったときがある。
前回の記事は、こんなふうに終わっている。
「戦争か平和か」なら、普通は、平和を選ぶだろうけれど、「大きな戦いか小さな戦いか」という難しい選択をしなければいけないこともあるのではないか?
現実には、もう武力による解決しかないのに、あくまで話し合いで平和的に解決しようとすると、かえって問題が複雑したり大きくなったりしてしまうことがある。
そして、結果的に、多くの一般人が犠牲になってしまうこともある。
実際に、過去にそれがあった。
その具体例として、「第二次世界大戦」をあげた。
これは、国連憲章にあるもの。
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度までも言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い
この言葉にある、「言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争」というものにが世界大戦になる。
今回の記事は、その第二次世界大戦が起きた理由と、それを「招いていしまったもの」について、書いていきたい。
では、中学生のころの復習から始めましょうか?
第二次世界大戦が始まった理由は?
これは、常識としてもぜひ、覚えておきたい。
正解はこちら。
第二次世界大戦の開始
1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に対し、ポーランドの同盟国イギリス・フランスが9月3日、ドイツに宣戦布告したことから始まった。
(世界史用語集 山川出版)
これは、日本はもちろん、世界の人々も同じように認識しているはず。
でも、「第二次世界大戦を招いたものは?」となると、難易度がググッと上がる。もちろん、この答えはいろいろある。
第一次世界大戦で敗戦したドイツに、払いきれないような賠償金を課したことだったり、世界恐慌が起きてしまったことだったり、と。
でも、日本ではあまり知られていないけれど、第二次世界大戦を招いてしまった要因として、見逃せないものがある。
一言でいえば、「戦争だけは絶対に避けて、あくまで平和を求めようとしたこと」になるかな。
「イギリスで、最も尊敬されている偉人は?」
とイギリス人に聞いたら、きっとそのイギリス人は、「チャーチル」の名をあげるだろう。
チャーチルともなると、「イギリスの英雄」というより、「世界の英雄」と言った方がふさわしい。
1965年にチャーチルが亡くなったとき、ニューズウィーク誌はこう書いている。
彼の名は英語が話され続ける限り生き続ける。ウィンストン・チャーチルは史上最も偉大なイギリス人だったと言っても過言ではなく、言うのに早過ぎるということもない 。
「彼の名は英語が話され続ける限り生き続ける」ということは、実質、人類がいなくなるまで、チャーチルの名が消えることはない、ということだろう。
なぜ、チャーチルはこれほどの英雄になったのか?
最も大きな理由は、「早くからドイツとの戦争を主張していて、実際に戦って勝利したから」、だろう。
そのチャーチルと引き合いに出されることがある、(かわいそうな)ネヴィル=チェンバレンという人物がいる。
ここで、この二人がどんな人物であったかを見てみよう。
ネヴィル=チェンバレン(ウィキペディアから)
ネヴィル=チェンバレン
イギリス保守党の首相(在位1869~40)。ドイツ・イタリアに対して宥和(ゆうわ)政策で対応した。ミュンヘン会談で、戦争回避のためにヒトラーの要求を認めたが、第二次世界大戦を防げなかった。戦争指導に対し、党内からも不信の声があがり。1940年5月に首相を辞任した
(世界史用語集 山川出版)
宥和政策とは、「妥協点を探り、協議と譲歩によって衝突をさけようとする政策(世界史用語集)」のことをいう。
チェンバレンは、ドイツとの戦争(武力衝突)を避けて、平和的に解決をしようと努力した。
チャーチル(ウィキペディアから)
1874~1965 イギリス保守党の首相(1940~45,51~55)。
早くからナチスの強大化を警戒し、宥和政策を批判していた。1940年」5月、チェンバレンにかわって首相に就任、ローズヴェルト・スターリンとともに連合国の指導者として活躍した(世界史用語集 山川出版)
チャーチルはチェンバレンと違って、平和的解決ではなく、武力によって問題の解決を図っている。
そして、その二人の現在の評価は、比べることが難しいほど違っている。
先ほどチャーチルに対する評価を書いたから、今度は、チェンバレン(彼がした宥和政策)に対する世界の認識をみてみよう。
一連のチェンバレンによる宥和政策は「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与え、ヒトラーに対し、イギリスから近隣諸国への侵攻を容認されたと勘違いさせた」として非難されている。
特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、第二次世界大戦を経た現在では、専門家並びに一般は強く批判されることが多い。
(ウィキペディア)
平和的に解決しようとしたチェンバレンの評価は、このようにとても厳しく、ドイツを戦ったチャーチルは、人類の永遠の英雄になっている。
では、第二次世界大戦が始まるまでの世界の流れを、この二人に焦点を当てて見てみよう。
・1938年、ミュンヘン会議で、ネヴィルチェンバレンとヒトラーが話し合う。
・チェンバレンは「ドイツとの戦争を避け、平和的な手段で解決できた」と確信。
「イギリスに帰国後、『われらの平和』を高らかに宣言する。(「あらすじで読む英国の歴史」 ジェームズ・M・バーダマン)」
・「6カ月後、ヒトラーはこれを破棄し、チェコスロヴァキア全土を占領したのです(同書)」
・チェンバレン、顔真っ青。世界「ちょっと、ちょっとちょっと!」
・1940年5月、チャーチルがチェンバレンにかわって首相に就任。ドイツと本格的な戦争開始。
・イギリスは英本土上空の戦い「バトル・オブ・ブリテン」でドイツ空軍を撃退。連合軍は44年フランスに上陸し、45年5月にドイツを降伏させた。
(ニューズウィーク2016.2.2号のコラム)
↓
・現在の世界
戦後の世界にとって、ファシズムと真正面から戦い続けたチャーチルはあの戦争を終わらせてくれた恩人でもあった。
(ニューズウィーク2016.2.2号のコラム)
「戦争か話し合いか?」
と聞かれたら、誰だって、話し合いで問題を解決する方がいいだろう。
ただ、ヒトラーに関していえば、これは間違っていた。
「未来から過去を振り返れば、いくらでも言える」ということを承知で言わせてもらうと、ヒトラーに対しては、話し合いで解決できるかどうかを、どこかで見極める必要があっただろう。
平和を求めるにも限度がある。
どうしても解決しなければいけない問題であって、対話を含めてあらゆる平和的な手段では、問題の解決ができない場合、最後の最後は武力行使しかないだろう。
現在では、チェンバレンの判断より、チャーチルの決断の方が正しかったということは、イギリスでは常識になっている。
サッチャー元首相は、ヒトラーに対して宥和政策を決めたことを「何も決定しないことを決定し」と、厳しく批判している。
チャーチル英元首相は、1930年代の英国のナチス・ドイツに対する宥和(ゆうわ)政策を痛烈に皮肉っている。
「何も決定しないことを決定し、優柔不断であることを決意し、成り行き任せにするということでは断固としており…」。
この宥和政策がむしろ、ヒトラーを慢心させて第二次世界大戦につながったというのが歴史の教訓である。
ところで、以前、チャーチルや宥和政策についてイギリス人はどう思っているのだろう?
と、イギリス人の「生の声」を知りたくなった。
それで、前に大学で歴史を専攻していたイギリス人に聞いてみたことがある。
続きは次回で。
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