はじめの一言
「村民たちは自分たち自身の風習にしたがって、どこから見ても十分に幸福そうな生活を営んでいる
(オールコック 江戸時代)」
「逝きし日の面影 平凡社」
今回の内容
・日本の文化は猿まねじゃない!
・律令も日本風に変えて大宝律令に
・日本の文化は猿まねじゃない!
日本の文化は中国由来のものが多い。
そのせいか、中国旅行で会ったガイドはこんなことを言っていた。
「日本にあるものは、中国のコピーですよ」
旅先で会った日本人の旅行者も、こんなことを言っていた。
「日本ってのはね、結局は猿まねがうまい国なんだよ」
ちがうでしょ。
日本は中国からいろいろなものを取り入れたけど、それを日本人に合ったものに変えている。
それが日本文化の特徴。
着物や扇子も中国からきものだけど、日本人に合ったものに変化を加えて「日本風」にして日本独自の文化にした。
前回の記事で、そのことについて書いた。
日本の文化だけじゃなくて、日本人は歴史でも中国からきたものを変えて日本独自のものにしている。
奈良時代には、唐の律令を日本風に変えて「大宝律令」をつくっている。
今回はそれについて書きます。
・律令も日本風に変えて大宝律令に
まずは唐について確認しておこう。
隋を滅ぼして李淵(りえん)が建てたのが唐王朝。
唐 618~907
都は長安。律令制・均田制・租庸調制を確立。領域を拡大して東アジアに唐文化圏を形成したが、内乱の後、内乱の後、朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。
(日本史用語集 山川出版)
唐の時代の龍門石窟(世界遺産)
奈良・平安時代の日本にとって唐は先生のような国で、遣唐使を派遣していろいろなことを学んでいた。
この時代の日本にとって大事なことは、唐から律令を取り入れて「律令国家」になったということ。
律令国家
律令と格式という法令によって運営される国家。日本では天皇を中心とする中央集権的官僚制の国家体制(律令制度)が7世紀後半~9世紀頃に機能した。
(日本史用語集 山川出版)
だからそれまでの日本は、法令によって国の政治がおこなわれていなかったということになる。
日本人は唐から学んて取り入れた「律令(りつりょう)」も日本風に変化させた。
唐にあった律令は唐のためのもので、唐に最適化されている。
中国に合ったものをそのまま日本に持ってきても、日本には当てはまらない。
大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。
ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
(ウィキペディア)
そういうことで、唐で学んだ唐令を日本の国情に合ったものにしなくてはいけなかったわけさ。
先ほどの「令」については、こんな感じで日本に合ったものにしている。
中国では儒教の基本である礼楽が、律令を支える社会思想として機能していたが、日本ではそれらを受容することはなく、律令は単なる支配の道具という側面が強かった。
令は唐礼を参照しながらも、日本の国情に合うように修正した箇所もある。
(詳細 日本史研究 山川出版)
唐の律令をくわしく分析して、日本にふさわしい律令を完成させたのが701年の「大宝律令」になる。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。
(詳細 日本史研究 山川出版)
このことから分かるように、日本は何も考えずに唐にあるものを取り入れていたわけじゃない。
文化も歴史も中国のものを取り入れながらも、日本や日本人に合ったものに変えている。
だから、日本は猿まねの国じゃない!
創造性のある国なんだよ。
猿にこんな創造力はないはず。
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