今回は、ボクと同じ静岡出身の日本人を紹介しようと思う。
その人の名は、古橋 廣之進(ふるはし ひろのしん:1928年 – 2009年)という。
古橋氏は伝説的なスイマーで、第2次世界大戦後の水泳界で、新記録を連発して世界中を驚かせた。
アメリカ人が持っていた「ジャップ」という差別意識を一変させた日本人でもある。
そんな古橋氏の愛称は「フジヤマのトビウオ」。
古橋選手は浜名湖が育てた 。
雄踏小学校で水泳部に所属していた古橋氏は浜名湖での遠泳できたえられ、6年生のときには100mと200mの自由形で学童新記録を出す。
これで「豆魚雷」と呼ばれた。
「フジヤマのトビウオ」の最初の一歩だ。
その後、日本はアメリカとの戦争に突入して、古橋氏も水泳どころではなくなる。
戦争が終わってから、古橋氏は水泳を再開した。
でも当時、アメリカの占領下にあった日本で、日本人が自由に水泳をすることはできなかった。
明治神宮外苑プールはアメリカ軍のものとなって、日本人の出入りは禁止されていた。
そんな逆境のなかでも古橋氏は練習を続け、1947年の日本選手権では、400m自由形で優勝する。
公式記録にはならなかったけれど、古橋氏の記録は当時の世界記録を上回った。
その翌年1948年に、ロンドンオリンピックが開かれた。
でも、日本はこれに参加できない。
敗戦国の日本には、オリンピックへの参加が認められなかった。
これが当時の国際社会と日本の立場だ。
でも日本水泳連盟はおもしろいことをする。
ロンドン五輪の水泳競技決勝と同じ日に、日本選手権をおこなったのだ。
日本はオリンピックには出られなかったけど、同時開催をすることで、遠く離れたロンドンの五輪選手と勝負しようとした。
この水泳選手権で古橋氏は400m自由形と1500m自由形で、ロンドン五輪の金メダリストと当時の世界記録を上回った。
公式な世界記録とは認められなかったけれど、敗戦国の日本人をよろこばせるには十分だ。
この点、外国人レスラーを次々と倒して、国民的ヒーローになった力道山に似ている。
日本の水泳が敗戦国の立場を抜け出したのは1949年。
この年、国際水泳連盟が日本の復帰を認める。
これで日本はロサンゼルスで行われる全米選手権に参加することができた。
アメリカ入国の手続きのため、古橋氏たち日本の水泳選手はGHQ(占領軍総司令部)の最高司令官マッカーサー元帥と会う。
そのときマッカーサー元帥は古橋氏たちに笑顔でこう言った。
「堂々と戦ってアメリカをやっつけて来い。でないと帰りのビザは知らんよ」
終戦から4年後、マッカーサーはもう日本人を敵と見ていなかったようだ。
でも、本土のアメリカ人はちがう。
日本人への敵対心や差別意識が根強く残っていて、現地のアメリカ人は古橋氏の記録を信じようとはしなかった。
アメリカの地元紙は「日本の時計は周りが遅い」「プールが短い」と書く。
そして古橋氏たち日本人を「ジャップ」と差別用語で呼ぶ。
「ジャップ」とは太平洋戦争のとき、アメリカ人が日本人に憎悪を込めて使っていた言葉だ。
一般のアメリカ人のなかには、日本人をまだ敵と見る人が多かった。
そんなアメリカ人の認識を古橋氏たち日本人選手が変える。
4日間にわたる全米選手権で、古橋氏は次々と新記録を打ち出す。
「フルハシの記録はインチキではない。彼は本物だ」
事実を認めると、アメリカ人の態度は急変する。
アメリカの新聞は古橋氏を「フジヤマのトビウオ(The Flying Fish of Fujiyama)」と称賛する。
アメリカ人の日本人を見る目は一変した。
JOC(日本オリンピック委員会)のホームページで、古橋氏がこのときの様子を話している。
たちまちにそれまでの非礼をわび、私たちを「ジャパニーズ」と呼びなおし、私には”フジヤマのトビウオ”の愛称をつけてくれました。 市民も街頭で出会うと、パーカーの万年筆などを「記念だ」「土産に」と贈ってくれ、ポケットが一杯になったほど。私はアメリカ人の率直さと度量の大きさを痛感させられました。
アメリカ人はすぐれた能力には敬意をしめす。
だからアメリカの学校では、とんでもない飛び級が認められている。
15歳で大学4年生というのは、日本の教育制度ではあり得ない。
そんなアメリカでは、「アメリカズ・ゴット・タレント」という才能発掘番組が大人気。
視聴者の投票により、アマチュアや世間によく知られていないパフォーマーが世に出る機会となる。このフォーマットはとても人気があり、アメリカやイギリスでよく使われる手法である。
こういう考え方はキリスト教の精神による。
すぐれた才能があれば「ジャップ」から「ジャパニーズ」になるし、プレゼントも殺到する。
「堂々と戦ってアメリカをやっつけて来い」と言って送り出したマッカーサーは、彼らの活躍をこうたたえた。
「国際競技大会での行動には、よく国民の本性が表れる」
「日本は今後、重要な国際的責任を果たすべきときに直面しても、立派にやってのけるだろう」
日本を敗戦国と考える人間はもういなかっただろう。
古橋氏はロンドンオリンピックには出られなかったけど、1952年のヘルシンキオリンピックに出場することができた。
国民の期待を一身に集めたものの、400m自由形で8位に終わる。
古橋氏はもう選手としてのピークは過ぎていた。
これを実況していたNHKのアナウンサーは泣きながらこう言った。
「日本の皆さま、どうぞ、決して古橋を責めないで下さい。偉大な古橋の存在あってこそ、今日のオリンピックの盛儀があったのであります。古橋の偉大な足跡を、どうぞ皆さま、もう一度振り返ってやって下さい。そして日本のスポーツ界と言わず、日本の皆さまは暖かい気持ちをもって、古橋を迎えてやって下さい」
古橋氏を責める日本人はいない。
みんなが温かく彼を迎えた。
日本には、オリンピック選手に生卵を投げつけるような人間はいない。
国際競技大会での行動には、よく国民の本性が表れるのだ。
フジヤマのトビウオ・古橋 廣之進(ひろのしん)は2009年8月2日に、ローマのホテルで亡くなった。
でも、この英雄の名は日本の水泳界に生き続いている。
競泳日本代表の愛称は「トビウオジャパン」。
これはフジヤマのトビウオに由来する。
アメリカ人の「ジャップ」をジャパニーズに変えさせた古橋氏のように、世界で飛躍して欲しいという意味が込められている。
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