上の画像は第二次世界大戦の終わりを喜ぶアメリカ人のカップル。
「世界一有名なキス写真」とも言われる。
アメリカの戦後はここから始まった。
今日の一言
(明治日本の「西洋化」に対して) もし、日本人が、(中略)あちらのすべてを真似しようとするのであれば、その時は、その時は、日本よ、さようならである
(ベルツ 「日本賛辞の至言33選 ごま書房」)
「どんな戦争(武力行使)も絶対にダメ!」
と、前のボクは考えていたのだけれど、「世界の壁」にぶつかって、その認識が少しずつ変わりつつある。
韓国人にそれを強く言うことはできないし、何より、韓国人がその考えを受け入れないだろう。
国連でも武力行使は認められている。
第二次世界大戦では、戦争を避けてあくまで平和的解決にこだわってしまったことが皮肉にも、戦争を招いた大きな原因になってしまった。
キューバ危機では、ケネディ大統領が戦争を覚悟したことで、人類は第三次世界大戦を避けることができた。
ボクにとっては、国際連合でも武力行使は認められていることを知ったときは、意外な感じがした。
国連のことをほとんど知らずに、「国連は、戦争ではなく平和的に問題を解決するところ」と、思い込んでいた自分が悪いのだけれど。
何度もくり返ししまうけれど、国連がつくられた最大の目的は、「第三次世界大戦を起こさない」ということだった。
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度までも言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い
こんな言う言葉が国連憲章の冒頭にきている。
戦争を防止できなかった国際連盟の失敗を教訓とすべく
世界史用語集にもこう書いてある。
この「国際連盟の失敗」には、日本やドイツといった有力国が脱退してしまい、国際連盟が有名無実化してしまったということがある。
現在の国際連合で、米英日露などの有力国が抜けたら国連は力を失って、ほとんど何もできなくなってしまうだろう。
その国際連盟の「失敗」を教訓として、現在の国連では、有力国である常任理事国が脱退しないように、拒否権という特権が与えられている。
「与えられている」というより、常任理事国が自分たちだけに拒否権を与えているということだけど。
現在の国連は、米英ソ(露)が中心となってつくられた。
チャーチルは当然として、スターリンやルーズベルトの頭の中には「チェンバレンの失敗」が頭にあったはずだ。
彼らが、国際問題の最後の解決手段として、武力の行使(戦争)を認めることは、自然なことだと思う。
そもそも、国際連合とは、戦争で勝った国によってつくられた組織なのだから、国連ですべての戦争を否定することはないだろう。
「国連が戦争を認めている」とはいっても、戦争を勧めていることでは決してない。
問題解決には、平和的な解決を最優先・最重視するべきだろうけど、「それがどこまで通じるかどうか」を、どこかで決断をしなければいけないこともある。
対話で解決できる相手なのか?平和的手段で解決できる問題だろうか?
それを見極めて、次の行動に移さなければいけないこともある。
もちろん、そんな高度な政治的決断を一般市民がするわけがなく、責任と能力がある政治家がすることになるだろう。
しかし、その政治家を選ぶのは、一般市民だ。
最近、報道番組でキャスターが、「ヒトラーのような、とんでもない人物が再び現われるかもしれない」と言っていた。
すべての問題を対話で解決することは不可能で、話し合いが通じない人間がまた現われる可能性はある。
現実の世界では、「やむをえない戦争」や「避けられない戦い」というものがあって、多くの国や国連でもそれを認めているということだと思う。
ここで、自分のことを振り返ってみる。
前に、タイで会った旅行者から「何で、国連が戦争をしないと思ったの?」と言われて答えに困ったことがあった。
「戦争に良い戦争も悪い戦争もない。どんな戦争もしてはいけない」というボクの考え方の元をたどると、日本の憲法にいきつくのだと思う。
日本の憲法第9条では、「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」があるから、戦争はできないことになっている。
この点、この憲法の言葉をどう解釈するかによって、「何がどこまでダメなのかは?」は、人によって判断が異なる。
「自衛のための戦争ではあればいいのでは?」というも意見があって、必ずしもすべての戦争を否定してはいないのかもしれない。
けれど、一般的な認識としては、「日本は戦争を否定していて、絶対にしてはいけない」というものだと思う。
ボクの場合、そういう空気の日本に住んでいて、中学・高校の教育でも「どんな戦争も絶対ダメです」と教えられてきたから、自然とそういう考えが身に付いていた。
そして、それを「絶対に正しい考えだ」と思うようになり、そのまま外国や国連にも通じると考えてしまった。
先ほど、自分の考えと外国や国連の考えとは違ったことを、偉そうに「世界の壁とぶつかった」と表現した。
でも、考えてみれば、この認識の違いは当然のことだと思う。
第二次世界大戦を戦った連合国も現在の国連も、英語ではともに「United Nations」で、変わっていない。
英語では同じ言葉だけど、日本語では、「連合国」と「国連」と別の表現をしている。この別表記は、世界の国を見ても珍しいことなのかもしれない。
連合国は、戦勝国として戦後を始めた。
日本は逆に、敗戦国として戦後が始まった。
戦勝国と敗戦国とでは、「第二次世界大戦の失敗から学ぶ教訓」も当然、違ってくる。
「戦争を起こしてしまった」という教訓から、日本では、憲法で戦争が禁止されているのだと思う。
戦勝国の国連や他国では、「第二次世界大戦を防ぐことができなかった」という教訓から戦後を始めているのだから、戦争(武力の行使)を認めているのだろ。
敗戦国と戦勝国で、戦争の認識が同じであるはずがない。
日本は、敗戦後、一度も憲法を変えたことがない。
断っておくけれど、ここで「憲法を改正するべきだ」「憲法は変えてはいけない」という政治的な主張をするつもりは、まったくない。
日本には日本の考えがあって当然で、外国の真似をする必要はない。憲法を変えるか変えないかは、国民全体で考えて決めればいい。
それを考えるための、少しのきっかけが提供できればいいな、と思っている。
くり返しになるけれど、今後、日本がどう変わるかは国民が決めることだ。
そのことに、国民が無関心でいてはいけないと思っている。
気づいたら、日本がとんでもない国になってしまわないように。
ただ、日本がどう変わるにしろ、今の憲法にある平和の精神だけは変えないでほしいとは願っている。
「日本は、戦後の約70年間、憲法を変えていない」ということを外国人に話すと、それは、「ユニークだね」と驚かれることが多い。
変えていないことが良いか悪いかではなくて、それが日本という国の特徴だと思っている。
この敗戦後にできた憲法の平和の精神が、70年間ずっと、日本人の平和観に影響を与え続けていることは間違いない。
そんな日本人が、外国人と平和についての考え方で、「ズレ」を感じたとしても、不思議ではないと思う。
戦後をスタートさせた前提がまったく違うのだから。
抱き合ってキスで始めた人たちと、土下座して涙を流しながら玉音放送(天皇が終戦を国民に伝えたラジオ放送)を聞いて始めた日本人が同じ考え方であるはずがない。
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