前回まで、「アメリカ人が見た日本」について書いてきた。
「京都で自分の好きなお守りを買う」という日本では誰でもやるような行動が、一緒にいたキリスト教徒のアメリカ人には不思議に見えた。
そのアメリカ人の疑問がきっかけで、日本人の宗教観を知った(自分なりに)という内容。
アメリカ人と京都旅⑪ なぜ、日本人は自由にお守りを買えるのか?」
日本で生まれ育つと日本の建築物は見慣れたものになり、自分の考え方や価値観は当然のものになってしまう。
ボクは、お寺や神社といった具体的で目に見えるものなら、「日本的な良さ」は何となく分かる。
でも、日本人的な見方や価値観といった精神的な部分になると、外国人の指摘がないと改めてそれを意識することはない。
だから「何で日本人は、自由にお寺や神社に行って欲しいお守りを買うのか?」とアメリカ人に質問されて初めて、日本人の(自分の)宗教観について改めて考えることになった。
外国人の視点を借りることで、自分が何気なく行っている行動の何が「外国にはない、日本的なものか?」が見えてくる。
言い換えれば、日本で生まれ育った日本人だからこそ「日本的なもの」に気づきにくい。
今まで、日本人の友人と何度も京都の寺や神社めぐりをしたことがあるけど、「何で日本人は自由にお守りを買うことができるのか?」と疑問に思った人は一人もいない。
日本人ならそんなことは当たり前。
不思議に思うことはない。
でも、行動を起こすには、それなりの理由や考えがある。
ボクは今まで、その行動の背後には日本の伝統的な宗教観があることに、まったく気づかなかった。
日本で生まれ育った日本人だからこそ、日本的な価値観や考え方が分からなくなる。
でも「いや、日本人であればむしろそれが当然だ。それでいいじゃないか」ということを言った人がいる。
「外国人が日本人の知らない日本を発見した。けれどそれと同じように、日本人が日本を発見できなくて、何がいけないのか?」 と言った日本人。
今回からの記事では、そんな考えを示した坂口安吾の言葉を紹介しながら、「日本人にとっての日本とは?」「一番大事な日本とは?」ということについて書いていきたい。
坂口安吾は「日本文化私観」で、日本人について次のように述べている。
ちなみに、坂口安吾という評論家は1906年(明治39年)に生まれ、 1955年(昭和30年)に亡くなっている。
「日本文化私論」は、日本が近代化に向けて大きく変わりつつある時代の日本人に向けて書かれている。
多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、お欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新しい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ
(堕落論 坂口安吾 「角川文庫クラシックス」)
「京都の寺や奈良の仏像が全滅しても」と過激な表現をしているけど、坂口安吾は「より快適で便利な近代的な生活を過ごすために、日本の寺社を破壊してしまえ」と、言っているわけではない。
そうではなく、寺や仏像といった日本の伝統的な造形物が消えてしまったとしても、それよりも日本にとって大切なものはなくることはない、ということを次に述べる。
我々に大切なのは『生活の糧』だけで、古代文化が全滅しても、生活が滅びず、生活自体が滅びないかぎり、我々の独自性は健康なのである
ここで「我々の独自性」という言葉が出てくる。
この言葉は、外国人にはない日本人に特徴的な考え方や価値観をさすのだろう。
それは、日本に古くからある木造の橋を外して鉄橋に変えたり、木製の階段を取り壊してエレベーターにしたりして失った「古き良い日本」よりも大事なものだ。
もちろん、「京都の寺や仏像が全滅しても困らない」ということはない。
そんなことがあったら困る。
これは、坂口安吾の表現の仕方で、実際には、後の世代や外国人のためにも、大事に守り続けていかなきゃいけない。
坂口安吾はこの後、タウトに触れながら「我々の独自性」について言及している。
外国人であるドイツ人のタウトだからこそ、「日本人が発見できなかった日本」を見つけることができたという。
今でも、書店には「ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家(田中辰明 中公新書)」という本がある。
このタイトルから分かるように、タウトは外国人の建築家の眼から桂離宮や伊勢神宮を見て、それまでの日本人が気付かなかったような美しさや価値を見出している。
でも、日本人が気づくことのなかった「日本の良さ」を外国人のタウトが見つけたことについて、坂口安吾は感謝してはいない。
しかしながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距(へだ)たりがあった
日本人は、タウトが発見したような日本の良さや価値を見つけることはできなかった。
でも日本人には、外国人のタウトが思いもよらなかったものがあったという。
それは、外国人であるタウトでは、埋めることができないような深いものだ。
すなわち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかもしれぬが、日本を見失うはずはない。日本精神はとは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要もないのである。説明づけられた精神から日本が生まれるはずもなく、また、日本精神というものが説明づけられるはずもにない
日本人は日本の良さを発見できなかったかもしれないけれど、日本で生まれ育った日本人は、すでに「日本精神をもった日本人」だ。
先ほどの「我々の独自性」というのは、日本人がもつこの「日本精神」のことだろう。
そして坂口安吾にとっては、京都の寺や奈良の仏像よりも大切なものはこの日本精神で、日本人がこれを保持している限りは困ることはない、と伝えているのだと思う。
これは昭和の前半に書かれた文で、「日本精神」というと、今の日本人には重々しく聞こえるかもしれない。
今でいうなら、「日本人らしさ」でいいと思う。
今まで書いてきたブログから言わせてもらえば、「日本人らしさ」の一つには「京都で好きなお守りを買う」という日本人の宗教観があると思う。
「私は宗教は信じません」という日本人でも、何らかの宗教観をもっている。
それがなければ、京都に行って欲しいお守りを買うという、友人のアメリカ人からすれば不思議な行動は生まれなかったはずだ。
とはいえ、この日本人らしい宗教観を他人に説明することはなかなか難しい。
坂口安吾はこうも言っている。
説明づけられた精神から日本が生まれるはずもなく、また、日本精神というものが説明づけられるはずもにない
日本精神はとは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要もないのである。説明づけられた精神から日本が生まれるはずもなく、また、日本精神というものが説明づけられるはずもにない
日本人は宗教が違うのに、お寺の仏様にも神社の神様にも手を合わせている。
日本人はそういう宗教観をもっている。
アメリカ人に説明できなくても、日本人にはたしかに日本の伝統的な宗教観がある。
だから日本にある寺や仏像がなくなったとしても、日本人が生活している限り、そうした日本人らしさ(日本精神)は生き続ける。
日本人にとって一番大事な日本とは、この「日本人らしさ」だと思う。
もちろん、これは外国人にとっても同じこと。
友だちの韓国人は「韓国人らしさ」が好きだし、それをとても大事している。
アメリカ人の友だちも同じように「アメリカ人らしさ」に愛着や誇りをもっている。
坂口安吾がこの文を書いたのは昭和の始めごろだ。
その時代であれば、「日本人は日本精神(日本人らしさ)をもっているけれど、それを外国人に説明できない」という状況でも良かった。
でも、今はどうだろう?
国際化の時代でも、そのままでいいのかな?
そのことを次回に書いていきたい。
日本に関心がある人はもちろん、外国や外国人との交流に興味がある人には、ぜひ読んでもらいたいです。
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