織田信長の家来となった黒人奴隷(弥助)と本能寺の変

 

はじめの一言

*江戸城で将軍(徳川家定)に会った時の感想

「想像されうるような王者らしい豪華さからはまったく遠いものであった。燦然たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。私の服装の方が彼のものよりも高価だったといっても過言ではない。
(ハリス 幕末)」

(逝きし日の面影 平凡社)

 

日本人では身分が高い人でも質素であった。
このハリスというアメリカ人は、日本史で習う重要人物だから覚えておこう。

ハリス

日本の江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。

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ハリス(ウィキペディア)

 

今回の内容

・世界で一番「幸せな」黒人奴隷・弥助
・本能寺の変と弥助

 

・世界で一番「幸せな」黒人奴隷・弥助

生まれて初めて黒人を見た織田信長は、

「肌の色が黒いのは体に墨(すみ)をぬっているからだろう」

と思い、その黒人の体を洗わせた。
しかし、色は落ちなかった(あたり前)!
「本当に肌の色が黒色なのだ」と理解した織田信長はこの黒人に強い興味を持ち、宣教師のヴァリニャーノからゆずってもらった。
信長はその黒人奴隷に「弥助(やすけ)」と名をあたえ、正式な武士にする。

 

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西アフリカ(セネガル)の結婚式での子どもたち

 

この黒人について、「信長公記」には次のような記述がある。

『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている。

弥助

 

彼らの存在に全京都が注目する。
どんな人間なのか見てみたいと見物人が殺到し、なぜかケンカや投石まで起きて、重傷者が出るほどの騒ぎになった。
信長は弥助を気に入り、いずれは城主にしようと考えていたという。
これが実現していたら、戦国時代の日本で「黒人の殿様」が誕生するところだった。

 

アメリカ人の黒人女性に弥助の話をすると、「そんな時代に日本に黒人がいたの? それも武士になったってどういうこと?」と信じられない様子。
彼女は、信長が初めて黒人を見て炭を塗っていると疑い、体を洗わせたというエピソードがツボに入って、「それは面白い!」と笑う。

このアメリカ人からすると、黒人を“家畜”と考えて、市場で売り買いしていた同時代の白人と比べると、信長は人権を重視し、先進的な考え方を持っていた。
アフリカから新大陸(アメリカ大陸)までの航海の途中、黒人奴隷は生きたまま海に投げ込まれて殺されることあった。
何とか生きてアメリカ大陸にたどり着いても、奴隷はそのまま売り飛ばされていた。

「マンディンゴ」という映画に、奴隷のオークション(競売)のシーンがある。

その映画の中で、奴隷たちは牛や馬とまったく同様に、歯を調べられ、血統書を付けられ、親子別々に売られてゆく。

(近代世界と奴隷制 人文書院)

 

こういう黒人奴隷の扱いをよく知っている彼女は、こう言ってため息をついた。

「その黒人奴隷は間違いなく、世界で最高に幸せな奴隷だったわ」

 

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セネガルの負の世界遺産「ゴレ島」

 

・本能寺の変と弥助

1582年に本能寺の変が起きた時、弥助も本能寺にいて、主君である織田信長を守るために明智光秀の軍と戦った。
奮闘もむなしく、信長は自害し、弥助は捕まる。
捕まえたまではいいとして、明智軍はこの黒人の処分に迷った。
家臣から「どうします?」と聞かれた明智光秀は、「(弥助は)動物で何も知らず、また日本人でもない」と処刑はしないで、南蛮寺に送ることにした。
一命をとりとめた弥助がこのあとどうなったのか、それを知る人はもう誰もいない。

 

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日本に到来したイエズス会宣教師などの南蛮人たち。
白人に連れられる黒人奴隷の召使も描かれている。

 

 

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アフリカの旅(国)が、こんなにひどいなんて聞いてなかったから。

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。