日本人はむかしから花見が大好き。
明治時代に来日したシドモアというアメリカ人はこんな印象を記している。
たとえ何でも陰鬱な冬に逆戻りしても、日本全国、白とピンクの花環で彩られるまで、じっと堪えます。栄光の四月、満開の花の雲、桜の爆発で帝の国は歓喜に包まれます
「シドモア日本紀行: 明治の人力車ツアー (講談社学術文庫) 」
もうすぐ令和になるいまの日本は「帝の国」ではないけど、桜の季節になると、よろこびが爆発するのはかわらない。
桜の開花を告げる「桜前線」なんて前線があるのは世界で日本だけだし。
日本にいる外国人も桜や花見を楽しみにしている人が多いから、来日して間もない外国人なら、「こんど花見に行かない?」と誘うとだいたい食いついてくる。
ボクとしては花見そのものより、「花見をした外国人の感想」のほうに興味がある。
それでいままでに、いろいろな外国人から話をきいてきたのだけど、今回はあるアメリカ人の印象を紹介しようと思う。
それは、「日本人はなんか冷たい」というもの。
レジャーシートの上で寿司やピザなんかを食べているとき、20代のアメリカ人男性に花見の感想をきいてみた。
「きょうはビューティフルな日で、桜は想像以上にアメージングだ。それに日本人はとてもポライトで感心した」と言うかと思って、ホルホルする準備をしていたのだけど、実際はまったくちがう。
そのアメリカ人はまわりを見渡して、「みんな楽しそうだけど、なんか冷たいというか、よそよそしいね」と言う。
花見で冷たいって、なにが?
ボクが見たかぎりでは、シートの上に食べ物や飲み物を広げて、みんな楽しそうに話をしたり写真を撮っている。
のどかで平和な花見の光景が広がっていたから、「よそよそしい」の意味が分からない。
ボクがニューヨーク出身のせいかもしれないけど、と断ったうえで彼はこんな話をする。
ここにいる日本人のグループは互いに背中を向け合っていて、交流がまったくない。
アメリカ人だったらきっと、「それ、おいしそうだね」とか言って隣のグループの人に話しかける。
それでいろいろなところで交流が生まれる。
でも日本人はそれを完全に拒否していて、それぞれが自分たちだけで楽しんでいるように見えるから、ボクにはちょっと冷たく感じてしまう。
「みんな楽しそうだけど、全体としては冷たい」という日本人への見方が印象的だったから、別のアメリカ人にもきいてみた。
その人は花見のときには感じなかったけど、言われてみればたしかにそうだと言う。
でもそれは花見だけじゃない。
日本の社会にいると、知らない人には距離を置くような、個人個人は楽しそうだけど背中を向け合っているような違和感を感じることがあるらしい。
このアメリカ人の指摘はきっと正しい。
日本人のばあい、花見で知らない人に声をかけて仲良くなることはまずない。
むしろ別のグループには話しかけないことが、礼儀というか暗黙のルールになっている。
でも花見は自分たちが楽しむことが目的だから、日本人にはそれでまったくかまわない。とつぜん話しかけて、相手の場の空気を乱すのも悪いし。
それで結果的にみんな他人に背中を向けているのだけど、この様子はアメリカ人にしたら、よそよそしく感じてしまうかもしれない。
でも、どっちがいい/悪いではなくて、日本とアメリカでは人との距離感がちがうだけのこと。
それぞれの社会ではそれぞれのやり方が正しい。
日本で日本人がアメリカ人なみのフレンドリーさを発揮したら、たぶん友達はできない。
日本人がアメリカ人になる必要はないし、逆もまた同じ。
ただアメリカ人や外国人との対人関係では、「少しずうずうしい」ぐらいがちょうどいいと思う。
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