きょねん(2018年)の12月16日、浜松の秋葉神社で「火祭り」がおこなわれた。
「へえ。それはそれは」とページを閉じないでほしい。
これはけっして地方限定の話じゃないから。
森林が国土の7割をしめる日本には、木造の建築物がおおい。
だから日本人は古来から火事をとても恐れていた。
そのために火除けの神として、秋葉大権現(あきはだいごんげん)が広く信仰されていたのだ。
浜松にある秋葉神社は全国にある秋葉神社の元締め。
言ってみればここが本社で、各地にある秋葉神社はここの「支店」のようなもの。
読者のお近くに秋葉神社はないだろうか?
もしあったら、それは浜松の秋葉神社とつながっている。
江戸時代には、この火の神様からご利益をさずかるために、全国からたくさんの参拝客が秋葉神社にやって来て、一時は伊勢神宮のお伊勢参りと同じぐらい盛んだったという。
数百年前、ひょっとしたら千年以上前から、年末になるとこの秋葉神社では「火まつり」がおこなわれてきた。
神聖な火の力によって火災や水難、いろいろ病気を祓(はら)うことを祈願するというものだ。
こういう目的の祭りは全国のどこにでもある。
くわしいことはここを見てほしい。
浜松に生まれ育ったボクでも、いままでこれを見たことがなかった。
家から遠く離れた山中で、12月16日の夜10時からはじまるのだ。
寒さと眠気で軽く死ねる気がして、この火祭りに参加しようとは思わなかった。
でも、2018年の12月16日は日曜日。
この機会を逃したら、たぶん一生行かない。
それで重い腰を上げて、秋葉神社へ向かった。
夜9時の秋葉神社
予想通りおそろしく寒い。と思って着込んでいったら準備万端すぎて、階段を上っていると汗が出てきた。
火まつりの舞台に到着。
そして儀式ははじまった。
秋葉神社の火祭りには「弓の舞・剣の舞・火の舞」の3つがある。
平安時代の衣装を着た神職が左手に弓、右手に鈴を持って舞い踊る。
それが終わると、東西南北と真上の天井に向けてに計5本の矢を放つ。
矢の当たりかたによって、次の年の豊年吉凶を占うという。
弓の舞
次は剣の舞。
二人の神職が左手に剣、右手に鈴を持って舞う。
これには地上の精霊をなだめたり、悪魔をおさえたりする意味がある。
また剣によって罪や穢れを切り祓うという。
最後にいよいよ火の舞だ。
火のともった松明(たいまつ)を手に舞い踊る。
さっきも書いたのだけど火災や水難、いろいろな病気を祓うよう祈りをこめておこなわれる。
出典:マシューキングの「秋葉神社火祭り」
この祭りには外国人の知り合いを連れて行った。
1人で行ったら、体の内外から冷えて軽く逝けると思ったから。
その外国人と話をしていたときに、「日本人が祭りに参加する意義や理由ってなんだ?」ときかれた。
「そんなことよりハンバーガーでも食べに行こうぜ!」と言おうか思ったけど、一応、それっぽいことを答えてみた。
「同じアホなら踊らな損」で祭りに参加して騒ぐのは楽しいけど、この火祭りは自分が踊るわけではない。
「数百年前から続く伝統儀式で、あれが日本人の心だよ。それを見ることだけで意義があるんだ」と、ほとんど中身のないものを伝統という美名でコーティングして言ってみた。
ここに来るのは信仰心によるものではなくて、そういう心があるからだろう。
ネットで「日本人の心」を調べると、古くからの伝統や江戸時代や明治時代に外国人から称賛した日本人の精神に求めているものがおおい。
それはそれでいいのだけど、それは過去だ。
いまも生き続けているものに焦点を当ててもいい。
20世紀前半の歴史学者・津田 左右吉(つだ そうきち:明治6年 – 昭和36年)はこう言っている。
過去のそれぞれの時代の生活において日本精神がはたらいた如く、現代には現代の生活においてそれがはたらいている。それを見るのが日本精神を明かにする最も適切な方法である。
「日本精神について (津田 左右吉)」
明治生まれの人の文章だからちょっと固い。
ここでいう日本精神は「日本人の心」としよう。
日本人の心を武士道とか過去の遠いところに求めると、想像で勝手に美化してしまうことがある。
現代でもはたらいているものなら、美化することも卑下することもなく正確に把握することができる。
「日本人が祭りに参加する目的や意義とは?」と意識しなくても、参加するだけで、すでに日本人の心が明らかになっている。
義務として祭りをやっている人より、それを見るためにやって来る人にそれが表れていると思う。
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