社員や生徒に服装規定をもうける会社や学校は日本全国にある。
むしろそれが普通で、オールフリーなんて組織なんてないだろう。
でも「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、何でもやりすぎはいけない。
最近は女子生徒の下着の色まできめるといった理不尽な「ブラック校則」が問題となっている。
岐阜県の高校では女子生徒の黒タイツの着用が認められて、NHKの「岐阜 NEWS WEB」が報じている。(11月19日)
校則では、これまで「肌色のタイツ」のみ認められていましたが、履くのが恥ずかしいとして、
多くの生徒は、素足に靴下で登校していました。県立高校で校則の見直し進む
この決定にネットではなぜか歓喜と勝利の声が上がっているけど、それは関係ないから先に進もう。
前回の記事で、サッカー日本代表の新ユニフォームを紹介した。
アディダス公式ホームページのキャプチャー
デザインのコンセプトは“日本晴れ”。
青色はサッカー日本代表のチームカラーで、日本を代表する色でもある。
海外で「ジャパンブルー」と呼ばれる日本の青はいつ、どのように始まったのか?
これからそれをみていこう。
ステーキのようにいきなり結論を出すけど、「ジャパンブルー」ということばを使ったのは写真のロバート・ウィリアム・アトキンソンというイギリス人の化学者だ。
彼は明治時代の日本で、東大教授として分析化学や応用化学を教えていた。
日本酒の醸造法を研究し、欧米の低温殺菌法に当たる火入れを発見したことで有名。
この時代の日本では藍色の服を着る人が多かった。
その青が彼の目には新鮮で、日本の藍色を「ジャパン・ブルー」と呼んだ。
アトキンソンの著書「藍の説」には「日本では全国至るところで藍色の衣装を見た」という記述がある。
では、なんで日本人は藍色の着物を着ていたのか?
その理由のひとつに江戸時代の「奢侈禁止令」がある。
「お上」が人々に、身に着ける服装をきめることは昔からよくあった。
江戸幕府は国民に対して、身分に合わせて着るものを制限する。
奢侈禁止、つまりぜい沢をするなということで、農民の着物の素材は木綿と麻だけ、色も茶色・ねずみ色・藍色の3色だけに限られた。
くわしいことはここをクリック。
寛永5年(1628年)には、農民に対しては布・木綿に制限(ただし、名主および農民の妻に対しては紬の使用を許された)され、下級武士に対しても紬・絹までとされ贅沢な装飾は禁じられた。
こんなこともあって、江戸時代、日本の藍染技術は発展しまくり。
そして普及しまくった。
セコリ百景の記事(2015年9月19日)
江戸中期から明治初期にかけては、日本のなんと8割程度の衣類は藍で染められ、どこの町にも紺屋があるほど藍染めが盛んだったそうです。
日本伝統の「青」を守り220年。藍染めの歴史と価値 日下田藍染工房
こんな時代がずっと続いて、明治にアトキンソンが「ジャパンブルー」を発見した。
藍色はひとつではない。
色の濃さや少し別の色を加えてることで、いろいろな青色を表現することができる。
これはそんな浮世絵の技法で、藍摺(あいずり)という。
これもジャパンブルー
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