はじめの一言
「結論として私はこういわねばならない。二十余年間日本にとどまったことに悔いを感じていないと。そして、もし祖国フランスに帰るならこの『日の昇る国』ですごした年月をいつまでも歓びをもって思い起こすであろう
(ノエル・ヌエット 大正時代)」
「逝きし日の面影 平凡社」
前回の記事で書いたこと。
・「区別」はしてもいいです。でも、「差別」はダメですよ。
・世界での差別には、「人種差別」と「宗教差別」が多いですよ。
今回の記事はその続き。
まずは、インドのカーストによる差別について。
このカーストによる差別は、上に書いた「人種による差別」でも「宗教による差別」でもない。
同じインド人、同じヒンドゥー教徒の間でおこなわれていた差別になる。
これがカーストによる差別の特徴になる。
ところで、インドにはいろいろな人たちがいる。
それなのに、ヒンドゥー教徒をひっくるめて「同じ人種」と言ってしまっていいのか?
それについてはこれを見てほしい。
人種
人類を骨格・皮膚・毛髪などの形質的特徴によって分けた区分。一般的には皮膚の色により、コーカソイド(白人人種)・モンゴロイド(黄色人)・二グロイド(黒色人種)に大別するが、この三大別に入らない集団も多い
(デジタル大辞泉)
カースト差別をしていたインド人とされていたインド人のあいだには、ここに書いてあるような人種の違いはない。
さらに、ウィキペディアにはこう書いてある。
海外の著名な社会学者、人類学者や歴史家はカーストの人種起源を否定している。
インドは、遺伝的には世界で最も多様な国家であるにもかかわらず、不可触民については遺伝的な根拠がまったくないのであり、この差別が社会的につくられてきたことは明らかである。
このウィキペディアの文にある「不可触民(ふかしょくみん)」というのは、次のような人たちのこと。
「不可蝕民というのは、ヒンズー社会の最下層級であり、太古の昔からカーストヒンズー(不可蝕民以外のヒンズー教徒)によって、『触れるべからざるもの』として忌避(きひ)されてきた
(アンベードカルの生涯 光文社新書)」
インドは大きい!
ここではインドのカースト差別において、それをした側と受けた側との間に遺伝的な違いはまったくないとある。
人種の違いがカースト差別の由来にもなっていない、とも書いてある。
だから、インドにあったカーストによる差別は人種や宗教の違いから生まれる差別とは違う。
肌の色が違うという人種の違いからうまれる人種差別やキリスト教とユダヤ教という宗教の違いからくる宗教差別のくるようなものとは違う。
先ほども書いたけどで、世界で「差別」といえばほとんどが人種差別や宗教差別のことを言う。
同じ人種で同じ宗教の間でおこる差別というのは世界を見渡しても珍しい。
シャカはカーストの身分を否定して平等を求めた。
突然だけど、ロヒンギャ(族)という人たちについて聞いたことある?
今、ミャンマーでロヒンギャへの差別が大きな国際問題になっている。
少数のイスラーム教徒のロヒンギャの人たちが、仏教徒のビルマ人からさまざまな差別や迫害を受けている。
人種も宗教も違うとなると、その差別はとても激しいものになる。
ニューズウィーク誌によると、「ポルポトの虐殺に匹敵する可能性がある」とまでいわれている。
ここでロヒンギャという名を出しのたは、ボクが個人的にこの人たちに関心があるから。
ミャンマーを旅行していたときに、ガイドをしてくれたビルマ族のミャンマー人からこのロヒンギャのことを初めて耳にした。
このガイドは、常に相手の気持ちを考えて行動する気配りの人。
ボクといっしょに長距離移動のバスに乗り込むと、「そちらの席は陽が当たりますから、私の席と替わりましょう」と日陰の席をゆずってくれたこともあった。
そんなやさしい彼女が、ミャンマーにいるロヒンギャのことになると口調が変わった。
「あの人たちはミャンマー人でありません。ミャンマーから出て行くべきなのです」
声に嫌悪や蔑視がこめられている。
それまでの彼女とはうってかわって、別人のようになってしまった。
だから印象に残っている。
ミャンマーを旅行した人はすべて、と言っていいくらいにミャンマー人の素朴で穏やかな人柄にふれてミャンマー人を好きになる思う。
でもロヒンギャに関しては、ミャンマー人はこうした面とはちがった表情を見せる。
そのときから数年がすぎた。
今では、アウンサンスーチーがミャンマーを統治するようになった。
でもアウンサンスーチーは、このロヒンギャについては何も言っていないし、何もしていない。
このことで、アウンサンスーチーは国際的な批判を受けている。
けどスーチーは、世界の声を無視している。
アウンサンスーチーが政治の表舞台に出てきてほしいと思っていたけど、権力を握るとこうなってしまうとは思ってもいなかった。
これからのアウンサンスーチーの政策には期待しているけれど。
日本はそのロヒンギャの人たちを受け入れている。
現在、200人以上のロヒンギャが群馬県で生活している。
ミャンマーのの首都ヤンゴン
ここでインドのカースト差別と日本の部落差別に話を戻す。
この二つの差別に共通している点は、同じ人種や宗教のなかでおこなわれていたということ。
人が意図的に違いをつくり出し、生み出した差別ということになる。
こういう種類の差別は世界でも他に例を見つけることが難しいほど、特殊な差別らしい。
「世界にある差別で、同じ人種・宗教の間でおこなわれていた差別は、インドのカースト差別と日本の部落差別だけです」
大学の授業でこう聞いて驚いた記憶がある。
でも「だけ」というのは、どうだろう?
韓国にも「白丁(ペクチョン)」という被差別民がいた。
だから、こうした種類の差別が「インドと日本だけ」ということはないだろう。
ウィキペディアには部落差別の起源について、「人種起源説と職業起源説とがあり、未だ意見の統一を見ない」と書いてある。
大学の授業で教授は、部落差別について職業起源説をとっていて、「同じ日本人に対する差別である」と言っていた。
だからこの記事でも、「同じ人種での差別」ととらえることにする。
この部落差別は、世界でも特殊な差別になることはたしか。
「部落問題」を英語にすると、「Buraku problem」になることがある。
英語圏には同じ人種や宗教の間での差別がないから、Burakuと書くかその差別の内容を説明するらしい。
くり返しになるけど、インドのカースト差別も日本の部落差別も同じ人種・宗教の間での差別という点では共通している。
人種や宗教による差別といった世界の他の差別とは違う。
では、カーストの違いはどのようにして生まれたのか?
ヒンドゥー教のカーストには、「バラモン」「クシャトリア」「ヴァイシャ」「シュードラ」の4つがある。
そのことは知っていても、「どのようにその違いが生まれたか?」というカーストの由来については知らない人は多いと思う。
次回の記事で、そのことを書いていきます。
どのようにして、人が人に違いをつくり出したのか?
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@amamatsushizuo3
穢れ意識からくる同火共食に基く差別なんてまさに部落差別とカースト差別に共通していますね。
日本人の穢れ意識の起源の一つに密教を通じてヒンドゥー教の穢れ観念が9世紀頃から日本に入ってきたためとされています。
この密教から齎されたヒンドゥー教の穢れ観念と古代中国起源の陰陽道などと結びついた中世神道の触穢思想が合わさって日本人の穢れ意識が形成されていったのだと考えられます。
そして現代ではアファーマティブ・アクションから生じた社会問題も共通していますね。
http://www.asahi.com/articles/ASJ2V0P46J2TUHBI021.html
http://ajisaibunko.sblo.jp/article/174422038.html
イエメンでもアフダームと呼ばれる集団が今でも部族社会に基くカースト差別を受けているそうです。
厳しい差別によりアフダームは清掃業など人が嫌がるとされる賤業に就くしかないとのことです。
西ヨーロッパでもかつてカゴと呼ばれる被差別民が厳しい差別を受けていたそうです。
日本の穢れという考えがいつ、どうやって生まれたかは、分かりません。
なるほど、そういう説もあるのですね。
アファーマティブ・アクションについては、マレーシアの中華系の人たちに話を聞くと、かなり不満をもっているようです。「現地のマレー人を優遇しすぎ」だと。
イエメンには、行ったことがあります。
イエメンではイスラム教徒とユダヤ教徒の仲が良くて、驚きました。
でも、そんな差別があったとは、意外ですね。