今回の内容
・苦しみの理由は?
・業(カルマ)について
・すべては業(カルマ)
・苦しみの理由は?
中国旅行で現地ガイドにお寺に案内してもらった。
その寺のお堂に入って思わず息をのむ。
壁にびっしりと、地獄の世界が像を使って描かれていたのだ。
その地獄の様子があまりにリアルで、一瞬、言葉を失った。
そして、その寺の地獄の世界と「日本の死者の書」といわれる往生要集(おうじょうようしゅう)に書かれている日本の地獄とを合わせて、「地獄とはどんなところか?」というこを前回書いた。
今回はその続き。
この閻魔(えんま)王から「おまえは地獄行きだ」と言い渡されたら、地獄に行くことになる。
これが地獄の世界。
ここに載せるのは写真だけ。
・苦しみの理由は
こんな耐えがたい苦しみを与え続ける地獄の獄使(鬼)に対して、死者は「もうやめてほしい」と懇願(こんがん)する。
大王の獄吏よ。あなたはどうして慈悲の心なく、心静かでないのでしょうか。わたしは哀れみを受けてもよい者です。どうして悲心をくだされないのか。
(日本人の死者の書 往生要集の〈あの世〉と〈この世〉 NHK出版)
これに対して獄吏はこう答える。
おまえは自分の愛欲に迷って悪と不善をおこない、いま悪行の報いを受けている。どうして私を恨むのか、おまえは自分で悪行をなし、愛欲にだまされたのだ。そのときに悔いず、今になって後悔しても、もう遅い。
(日本人の死者の書 往生要集の〈あの世〉と〈この世〉 NHK出版)
この獄卒が言っていることは、「因果応報」という仏教の教えだ。
善いことをすれば善い結果、悪いことをすれば悪い結果が返ってくるという因果応報。
自分が生きていたときに悪いことをしておいて、「あなたはなんで、こんなに私を苦しめるのですか?」と言っても仕方がない。
自分がしたことが、自分に返ってきただけのことだから。
この往生要集は仏教書というだけあって、仏教の重要な考え方が他にも書かれている。
・業(カルマ)について
今までに、いつかどこかで「業(ごう)」という言葉を聞いたことがあると思う。
これは仏教の言葉だ。
人がおこなう善悪の行為のこと。
前世の業(行為)によって、現世で報い(結果)を受けることになる。
業はもとは古代インドの言葉(サンスクリット語)の「karman」を漢字であらわした言葉。
外国人と英語で話すときは、このサンスクリット語の「カルマ」で通じた。
この業(カルマ)は絶対的なもので、人が死んでもなくなることはない。
死によっても失われず,代々伝えられると考えられる。
百科事典マイペディアの解説
往生要集の「大焦熱(だいしょうねつ)地獄」ではこんな文がある。
地獄におちれば薪草のように焼かれてしまう。しかし、火が焼くのではない。自分自身の業で焼かれる。火は消すことができても、業に焼かれることを防ぐことはできない。
(日本人の死者の書 往生要集の〈あの世〉と〈この世〉 NHK出版)
生きていたときの自分の行ない(業:カルマ)が、地獄の炎になってあらわれる。
一見すると、炎によって焼かれているように見えるけれど、実は自分の「業(カルマ)」によって身体を焼かれているのだ。
だから、誰にもどうしようもできない。
これは仏教でいう「自業自得」のこと。
・すべては業(カルマ)
ここまで地獄について書いてきた。
地獄におちると、獄吏(鬼)によって言語を絶する苦しみを与えられる。
でも、本当は違う。
自分が過去にした行い(したこと・言ったこと・思ったこと)の結果、今苦しんでいるだけ。
獄吏ではなくて、自分の業(カルマ)によって苦しめられているのだ。
無限地獄に向かう死者に、閻魔王の使いがこう言っている。
これから無限の時を、おまえは大火に焼かれて過ごす。すでに悪をなし、いまさら何を悔いるのか。悪神や魔物のせいではない。業の網がおまえを捕らえたのだ。おまえを救える人はいない。
(日本人の死者の書 往生要集の〈あの世〉と〈この世〉 NHK出版)
この往生要集に出てくる「業の網」とは、カルマの法則といっていいと思う。
死後、自分が地獄に行くかどうかは、悪神のせいでも魔物のせいでもない。
閻魔王が決めることもできない。
すべては、生きている時に自分が何をしたか?
具体的に言ったら、今日、自分は何を思い、何を言って、何をしたか?
人を傷つけるような言葉を言ったり、態度を示してなかっただろうか?
そのすべてが業(カルマ)となって、いつか必ず自分にかえってくる。
そしてその業(カルマ)によって、自分の来世が決められるのだから。
ここでは詳しくは書かないけど、仏教とキリスト教の違いを知りたかったら、この仏教の思想である「業(カルマ)」を頭におきながら、聖書の「ヨブ記」を読んでいるといい。
仏教の場合は、自分が過去にしたこと(業:カルマ)によって苦しむことになる。
それに対して、キリスト教の聖書に出てくる「ヨブ」という人は、まったく悪いことをしていないのに、「神の意思」によって苦しみを与えられている。
これを読むと仏教とキリスト教とでは、考え方が大きく違っていることがよく分かる。
業(カルマ)が人を支配するか?
神が人を支配するか?
さあ、どっちだろう?
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