日本人が知らない、ベルギーが植民地のコンゴで行った蛮行

 

2020年5月にアメリカで、黒人男性が白人の警察官から暴行を受けて死亡する事件が起きてから、アメリカはもちろん、「Black Lives Matter」(黒人の命は大切)という人種差別撤廃運動が全世界へ広がった。

この流れで欧米が過去に行っていた奴隷制度や植民地支配が改めて問題視されるようになり、ベルギーではこうなった。

AFPの記事(2020年6月30日)

ベルギー国王、コンゴの植民地支配に「遺憾の極み」表明

 

フィリップ国王がコンゴ民主共和国の大統領にかつて被害を与えたことについて、「過去の傷について、遺憾の極みと伝えたい。その傷の痛みは今日、私たちの社会に依然存在する差別によって呼び覚まされている」と記した書簡を送った。

*以下、「過去の傷」に関する閲覧注意の写真が出てくるからそのつもりで。

 

 

 

 

 

 

手首のあたりから切り落とされたコンゴの人たち

 

いまの価値観からすれば、欧米が行っていた植民地支配は大抵どこもムゴイものだったけど、ベルギーのレオポルド2世の下で行われていた残虐な行為は別格。
日本ではあまり知られていないけど、それは人種差別が当たり前だった当時のヨーロッパ人でさえ激怒するほどだった。

ベルギー人ならそのへんのことはよく知っているから、最近では反人種差別抗議デモの参加者がレオポルド2世の像にペンキをかけられたり、引き倒したりした。
さらに像の撤去を求める声も大きくなっているとか。

この動きが反・王室につながってくるかもしれない。
現国王がコンゴに「遺憾の極み」を伝えたのも、半分は国内向け、王室の今後(あ、言っちゃった)を考えてのことだろう。

さて、これに日本のネットの声は?

・ヨーロッパで植民地持ってなかった国ってあるのかよ
・「遺憾」の意味が分かっていないw
遺憾とは、「(誰の責任も問わないけど)あってはならないことだなぁと残念に思う気持ち」のこと
・ヨーロッパはアフリカ全土を養えよ
・コナン・ドイルも非難してた最悪の植民地経営
・今の価値観で歴史を否定的に語るなよ
・エッフェル塔に上ってみろ
旧植民地の方角と距離が床に貼ってある
・金なき誠意は無価値らしいぞ

 

レオポルド2世(在位1865年 – 1909年)

 

まずは1880年代から1912年までにかけて、ヨーロッパ列強が支配権をめぐって争っていた「アフリカ分割」について確認しておこう。

1870年代のイギリスによるエジプトの支配に始まり、フランス、ポルトガル、ドイツ、イタリアによって帝国主義的分割が進められ、ベルギー国王のレオポルド2世によるコンゴ領有を機に、1884~85年にドイツのビスマルクが提唱したアフリカ分割に関するベルリン会議が開催され、列強の利害が調整された。

アフリカ分割

ヨーロッパ列強によるアフリカの植民地分割状態(1913年)

リベリアとエチオピア以外はヨーロッパの7か国によって支配されていた。
真ん中の薄いオレンジ色がベルギーの植民地だったコンゴ。
あとの詳細はここをクリックだ。

アフリカ分割

 

はじめコンゴはベルギーの直轄植民地ではなくて、レオポルド2世に与えられた広大な「私有地」だった。

*1884年のベルリン会議で列強から統治が認められて、コンゴの民と土地はレオポルド2世のものとなる。(コンゴ自由国

ヨーロッパの植民地支配は搾りとってなんぼ。
レオポルド2世は大きな利益が期待できる天然ゴムを自分の独占事業にし、その生産量を約250トン(1893年まで)から6000トン(1901年)にまで高めさせることに成功した。

それは現地先住民のこんな犠牲をはらって。

最も重要な資源である天然ゴムにはノルマ制が設けられ、生産量が足りない場合には手足切断などの罰が加えられた。過酷な圧政によってコンゴの人口は1885年にコンゴ自由国が建設された時点(3000万人)と比べて70%減少し、900万人まで減少したといわれる。

レオポルド2世_(ベルギー王)#コンゴ統治

 

先ほどの人たちはこの圧政の犠牲者。
*以下、こんな写真が出てくるのでそのつもりで。

 

 

アフリカでは現地人の手を切断し、ベルギーでは大金を手にするレオポルド2世
これはそれを批判した風刺画

こう言っちゃなんだけど、ベルギーが「チョコレート大国」と呼ばれる背景にもアフリカでの奴隷的労働がある。

 

当時のベルギーがしたことについては、英語版ウィキペディアの「Atrocities in the Congo Free State」(コンゴ自由国家での残虐行為)にくわしく書いてある。
*日本のサイトは情報量が少なすぎる。

Workers who refused to supply their labour were coerced with “constraint and repression”. Dissenters were beaten or whipped with the chicotte, hostages were taken to ensure prompt collection and punitive expeditions were sent to destroy villages which refused.

 

天然ゴム生産の仕事を拒否した労働者はチコット(下の棒)やムチで殴打された。
確実な収穫のために人質が連れて行かれ(おそらく妻や子供)、「仕事」を拒否した村には破壊するための遠征隊が送られた。

 

チコット

 

遠征隊はベルギーが他の地域から連れてきた黒人によって組織された。

 

彼らは村を「completely swept clean」(完全に掃除した)という。

As a young man, I saw [Fiévez’s] soldier Molili, then guarding the village of Boyeka, take a net, put ten arrested natives in it, attach big stones to the net, and make it tumble into the river … Rubber causes these torments; that’s why we no longer want to hear its name spoken. Soldiers made young men kill or rape their own mothers and sisters.

 

捕まえた10名の村人を網に入れて、それに大きな石を付けて川の中に転がせた。
また兵士たちは、若い男性に自分の母親や姉妹を殺したりレイプさせたりした。

 

 

コンゴでの蛮行はキリスト教の宣教師によってアメリカやヨーロッパで報告されて、ベルギーへの批判が強まった。
そして1908年10月、レオポルド2世はベルギー政府から補償金をもらって私有地であるコンゴ自由国を手放し、コンゴはベルギー政府が直接支配する植民地になる。
当時の常識から考えたら、解放されるなんて夢物語。

このときベルギーが行ったことを「大虐殺」とする見方もある。

Historiography and the term “genocide”

 

1951年にベルギーに建立されたレオポルド2世の記念碑

「私は、文明とベルギーのためにコンゴの仕事を引き受けました」とある。

 

労働を拒否したら村を「掃除」して、労働者がノルマを達成できなかったら家族の手を切断する。
これについてベルギーは「過去の傷について、遺憾の極みと伝えたい」と言うだけで、(ボクが調べた限り)謝罪や賠償はしていない。
レオポルド2世がコンゴで行ったことは歴史的な巨悪だけど、どこの国も植民地では悪いことをしていた。
でも欧米ではそれが一般的で、植民地支配での残酷な行為を認めても謝罪や金銭的な賠償はしていない。あってもそれはきっと例外的だ。

 

ゴムの収穫が少なかった罰として、切り落とされた5歳の娘の手と足を見つめる父親

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。