はじめの一言
「日本人はこれまで知りあったどの国の人よりも、うわべだけでなく、すべての物事に対して物静かで、控えめ、知的で、芸術好きで、思いやりがあってひじょうに感じがよい人たちです。
(アルバート・アインシュタイン)」
前回までの記事でこんなことを書いてきた。
インドのカースト(ヴァルナ)は、どうやって生まれたのか?
カースト制度やカースト差別は、今のインドではどのような状態なのか?
世界で一般的にいわれている「差別」というものは、人種差別や宗教差別が多い。
だからインドのカースト差別や日本の部落問題みたいに、「同じ人種・宗教の中で行われる差別」というのは珍しい。
世界には日本の「部落問題」のような差別はほとんど見られないから、「部落問題」を英語をするとそのまま「Buraku problem」となることもある。
そんなことも前回書いてきた。
今回は、「日本のカースト差別」とでもいうべき部落問題について書いていきたいと思う。
この記事では「同和問題」という言葉をつかうことにする。
部落問題と同和問題の違いは、ウィキペディアを見てくださいな。
明治時代、シドモアというアメリカ人女性が日本を旅行で訪れていた。
彼女は現在、毎年行われている「ワシントン桜まつり」の起源にあたる人。
彼女は日本で知った部落差別の様子をこう書いている。
このあたりには、世間から見捨てられた人たちの暮らす被差別部落があります。死体を扱い、川や毛皮で衣服を作る人を蔑(さげ)すんだためです。
差別の起源には、彼らが朝鮮から渡来した人の子孫であるとか、皇室の鷹狩りの実行者や提供者として長く勤めたという伝説的理由もありますが、むしろ動物の生命を奪うことを禁じた仏教戒律の影響と思われます
(シドモア日本紀行 講談社学術文庫)
これは、江戸時代に「えた(穢多)」と呼ばれていた人たちのことだと思う。
「えた(穢多」
農業従事者もいるが、皮革処理や牢屋の牢番・行刑役などを主な生業とした。
かわた・きよめなどと呼ばれる賤眠を含む。
えた頭の支配下にあり、一般人との交際や居住地を制限された。1871年のえた・非人の称廃止時に28万人余りという(日本語用語集 山川出版)
江戸時代には、この「えた」という人たちを含めた「賤民(せんみん)」と呼ばれる人たちがいた。
賤民(せんみん)
江戸時代に政治的な意図などから四民の下位におかれていた身分で、えた・非人などがあった。結婚・交際・居住など、社会生活において差別され、不当な扱いを受けた。
(日本史用語集 山川出版)
ここでいう「政治的な意図」というのは、そのことによって「人々の支配を容易ににした」ということなんだろう。
この文からは、幕府が日本の統治をやりやすくするために意図的に賤民をつくったとも読み取れる。
でもこの日本用語集には、「なぜ、このような人たちが差別されるようになったのか?」という「差別される理由や由来」については書いていない。
シドモアがいうように、仏教の影響によるものだろうか?
とにかく、この江戸時代に「賤民」と呼ばれていた人たちの存在が現在の同和問題に深くかかわっていることは間違いない。
ところで、今これを読んでいる人はこの「同和問題」という言葉を知っていましたか?
ボクは京都の大学に入るまで、この言葉をまったく聞いたことがなかった。
友だちが「どうわもんだい」言ったとき、頭に浮かんだのは「童話問題」だったぐらい。
「童話の何が問題なんだろう?」と。
ボクの反応に、それを言った京都出身の友人が驚く。
「同和問題を知らないの?静岡じゃ、学校で習わないんだ・・。」
関西では、誰でも知っているようなことだという。
今は分からないけど、少なくても浜松のボクが通っていた小中高の学校では、同和問題を教えてはいなかった。
だから、関西に行ってからこのことを初めて知ることになる。
さらに、大学でこのことをくわしく学んでショックを受けてしまった。
日本人が同じ日本人を差別していたとは!
「これは同じ人種・宗教の中での差別で、インドのカースト差別と同じです。人が人に違いをつくって生み出した『意図的で、人工的な差別』なんです」
大学の教授がそんなことを言う。
「同和問題はインドのカースト差別と同じ種類のものです」という言葉には、ビックリした。
そんなことは、それまでまったく知らなかった。
「インドにはカーストによる差別があります」と、中学校の先生が授業で言ったときにはこんなことを思った。
「だから、インドはダメなんだよなあ」とか「遅れてるんだよ」なんて偉そうなことを。
でもまさか、自分の身近でそれと同じ差別があったとは。
しかも、20歳になって初めてそれを知るとはね。
自分がどれだけ日本のことを知らなかったのかを、思い知らされましたよ。
今までの記事でカースト制度のことを書いていたら、この大学の授業を思い出した。
だから、今回記事にしてみました。
日本人だったら、インドのカースト差別より先に知らなきゃいけないことかもしれない。
先ほどシドモアの文章から、明治時代の日本の被差別部落の様子を紹介した。
現在はどうなっているのか?
もちろん、場所によってまったく実態は違うと思うけど、そのうちの一つをここで書きたい。
現在のむらはもう、以前の差別と貧困にいじめられたスラム的な姿ではない。
現在の被差別部落問題は、そこに住む部落民自身をも内包し、さらに複雑な様相を呈している。
今日では環境改善事業が実施され、むらにあった古い屠場は移転し改善された。道路も舗装され、ただ空き地だけが余白のように寒々と残っている血と脂の臭いは草いきい風景になったが、同時に、過疎化のすすむ殺風景な田舎町のようになってしまった
(被差別の食卓 新潮新書)
被差別部落出身の著者は、自身の「ルーツ」をこのように書いている。
わたしの家系は、神話で知られる旧南王子村、現在の和泉市の被差別部落からこの地に養子にきたことからはじまっている。
そしてわたしの祖父は京都・天橋立の近くにある被差別部落から嫁をもらい、わたしの父が生まれた。むらではこのように、わたしの祖父母の時代までは、近くのむらから嫁や養子をもらって縁組をしていた。
差別のため、一般地区の人とは結婚できなかったからである。(同書)
これは、ボクがインドで聞いたカースト差別とまったく同じだ。
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被差別部落出身の社会学者で日本で最初に社会学を本格的に導入した京都帝国大学教授の米田庄太郎博士の恩師であるアイザック・ドーマン師の大正3年の著書『神國ニ於ケル一傳道師ノ生活(原題:A MISSIONNARY’S LIFE THE LAND OF THE GODS)』(恩田理訳、阿吽社)に外国人から見た部落差別が克明に書かれています。
http://aunsha.co.jp/%E7%A5%9E%E5%9C%8B%E3%83%8B%E6%96%BC%E3%82%B1%E3%83%AB%E4%B8%80%E5%82%B3%E9%81%93%E5%B8%AB%E3%83%8E%E7%94%9F%E6%B4%BB_/
奈良英和学校におけるアイザック=ドーマン ―『THE SPIRIT OF MISSIONS』の史料紹介を中心に―
http://www.pref.nara.jp/secure/15692/18-3.pdf
アイザック=ドーマン『神国ニ於ケル一傳道師ノ生活』(恩田理訳、阿吽社、二〇一二年)から、以下米田庄太郎に関わる記述を引用する(一二九~一三〇頁)。
三人目の事情は大変驚くべきものなので、彼の生い立ちを詳しく述べたくなるほどだ。
私は教え始めて一、二ヶ月後にこの少年に注意を惹き付けられた。
極めて勤勉で賢く、ハンサムでもあったが、他の子らが彼とは交わろうとしないことに私は気付いた。
彼は百二十人の少年の中で事実上村八分にされていた。
彼は伝染性の病気に掛かっているのかと私は心配した。
私は英語教師のところに行って彼が孤立している理由を尋ねた。
「えただからです」と彼は言った。
「えたとはどういう意味ですか」「新平民のことです」「では新平民とは」と私は単刀直入に尋ねた。
「えたのことです」無邪気な答えだった。
「辞書を持って来て」と私は苛立って言った。
辞書には、えたは「不可蝕民」「最低のカーストの民」と書いてあった。
これは私にとって一つの啓示だった。
仏教の存在理由はバラモンなどのインドのカーストを廃止することだったが、今仏教の影響下にあるまさにこの国でカースト制度が許されているだけでなく、助長されているのだ。
これまで生きていて、除け者にされたこの不可蝕民の少年の問題ほど私の魂を奥底から揺り動かした問題はなかった。
私は心の中で思った。
「もしこの少年をその境遇から世俗的な意味でも宗教的な意味でも引き上げ、模範的なキリスト教徒にすることができないのなら、キリスト教は日本では大したことはできまい」と。
私は彼を自宅に招き、子供たちに引き合わせた。
彼は誰にも増して学問があることが分った。
彼は私が古代の宗教に関して行った講義を日本語に翻訳した。
その翻訳は日本の学会で高く評価されている。
一八九五年の秋、短い休暇を過ごすためにアメリカに帰る際、私は彼を連れて行った。
そしてニューヨーク市に住むキリスト教徒の親切な友人が援助してくれたので、最高レベルのアメリカの教育を彼は受けることができた。
彼は今日本に帰国しており、大学で講師をしているのに加え、他にも責任ある地位に就いている。
最も劣った素材から最高度の形の人間を作り出したのだから、この軽蔑されたえたの姿は偉大なミケランジェロが彫ったダビデ像よりも優れた芸術作品だと私は思う。
平成十年度テーマ展:米田庄太郎 ―人と思想―
http://www.pref.nara.jp/secure/14117/yoneda.pdf
なお、ドーマンは同書のなかに埼玉県川越に旅した際に見聞した部落差別の様子を次のように記録しており、本展示とは離れるが明治時代の部落差別の実態を外国人がどのように考察していたのかを知る貴重な文献となっている。
本題からはずれるが、ここで日本のエタ身分について触れておきたい。
その数を正確に把握するのは難しいが二百万人はくだらないと思われる。
エタは全国に散在している。
エタの起源についてはこれまでのところ十分な説明がなされていない。
ある者は、紀元前に日本に連れてこられた朝鮮人捕虜の子孫だという。
またある者はアイヌ(原住民)と初期の日本人、すなわち大陸からの渡来人との混血だという。
この説の方が説得力がある。
近年の改革以前は、彼らはいっさいの権利を持たず、全く保障されていなかった。
エタを文字で表すと「穢れが多い」と書く。
今から述べる話が、封建時代のエタの身分をよく説明していると思われる。
一八九六年と一八九七年の二年間私は群馬と埼玉の二県の教会を担当した。
埼玉県川越の近くに山城という村がある。
この村にいつも川越の礼拝に出ている教徒が二人いた。
ある時、村に礼拝に来てくれないかということになった。
私は引き受けることにして、川越の職員にこの村まではどのくらい距離があるかと訪ねた。
彼はたった二里(約五マイル)だと答えた。
私は少々運動不足であったので歩いていけるかと尋ねた。
承諾して我々は二里の道を歩きはじめた。
かなり足早に二時間はど歩いたところで私は尋ねた。
「ところで山城村はいったいどのあたりだ」。
「それは」と彼は答えた。
「この村でちょうど川越と山城の真ん中になります」。
「何だと?」と私はびっくりして答えた。
「もう二時間も歩いているのだから、二里ぐらい歩いたに違いない!」。
すると、彼は大笑いしていった。
「先生がこれまで体験されたことのないようなことをこれからお話しします。今我々が通って来た村はエタ村で、日本で唯一、街道の通っているエタ村です。他のエタ村はみな、道を通った人が穢れないように、国道から離れたところにあります。さて、村のなかを走っている道の、村の両側一里ずつは、穢れを避けるために本道の距離に入っていないのです。ですから、 川越と山城の間は実際四里あるのですが、 二里と数えるのですよ!」
人の人間が、同じ人間を軽蔑し憎もうとしたら、その行動がどれほどの不合理なものになるかその人間には想像できないであろう。
私はその後も世界中をまわったけれど、これほどの話は見たことも聞いたこともない。
だから書いておく値打ちがあると思う。
幕末の日本を訪れたドイツの医師オットー・ゴットリープ・モーニッケは当時の部落差別について書いていますね。
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/5414/1/KJ00000702904.pdf
さて、「日本人の精神的資質と道徳的特性」の一節に被差別部落民に言及している箇所がある。
モーニケは、鎖国体制下で国内の生産力が向上し、階級間の摩擦も少なかった述べ、江戸時代の法の執行が身分の高下に関わらず、極度に厳しく、偏りがなかったと言っている。
そして、「どのような階級に属していようとも、住民にとっては法の前での平等と身の安全と財産の安全があった。他の日本人と火と水を共にしない『エタ』あるいは『エトリ』ですらこの点では排除されていなかった」と述べている。
しかし実際は、部落民がよりひどい処罰を受けていることがあるからこの記述は正しくない。
日本の社会における「エタ」差別はモーニケの注意を引いたらしく、この間題については、モーニケは別に一文を草している。
モーニケの日本人と日本社会に関する考察をテーマとする本稿では、この文章を逸することはできないので、
次にモーニケの雑誌論文『日本の「エタ」あるいは「エトリ」』を取り上げてみる。
『日本の「エタ」あるいは「エトリ」』
この文章が掲載されている雑誌『アウスラント』は当時ドイツで発行されていた週刊誌で博物学、地理学、民俗学のための雑誌であった。
モーニケの文章は1871年7月24日付けの同誌に掲載されている。
モーニケの言うところによれば、ヨーロッパでは日本の被差別部落民のことについてほとんど知られていないので、自分が日本で耳にし、経験したことを伝えたいと考えてこの文章を書いたらしい。
タイトルになっている「エタ」は、日本中世の百科事典「塵袋」の中で、「エトリ」のなまったものという意味の記述がある。
これはしかし証明されたことではなく、学問的に問題が多いとされている。
ここでは、モーニケはむろん、この二つの言葉を同じ意味で使用している。
モーニケの文章が発表された時点では、日本は明治期に入っているが、モーニケがここで報告している体験や見聞は、江戸時代末期のものである。
さて、モーニケは、被差別部落の起源を、動物の肉や皮との関わりに求めるシーボルトの説に反駁することから文章を始めている。
シーボルトはその『日本』のなかで、次のようなことを言っている。
「日本人は「エタ」あるいは「エトリ」を家畜を殺したりあるいは死んだ家畜の皮を剥ぐひとたちと理解している。
彼らは神道の教義によって清浄でないと考えられ、天武天皇(672~682)が仏教徒の影響で家畜の肉を食べることを禁じた時、かれらは神域から追い出されたばかりでなく、一般にかれらとの交際も禁じられたもので、だれも彼らと生活をともにするものはなくなった。
その結果、彼らは特別な集落に集まり、そこで、妨げられることもなく彼らの不名誉な仕事に従事し、昔ヨーロッパの国々でもある種の身分のものが蒙ったような運命をわけあっている」。
これに対しモーニケは、日本の歴史家や、それに通じたものから自分が聞いたことはこれと違っている、と言う。
そして、「エタ」の起源はハンセン病にさかのぼらなければならないと書いている。
シーボルトにしろ、モーニケにしろ、自ら実証的に部落の起源を調べているわけではなく、周りの日本人からの伝聞である。
その意味でこれらの説は、当時の日本人社会でどのような部落差別がなされていたかを知る手がかりになる。
モーニケはこの文章のなかで、日本においてハンセン病者がどのように処遇されているかを詳しく述べているが、
これは医師としての関心からして当然の事と思われる。
ハンセン病については、つい先年「隔離政策等によって人権が侵害された」として損害賠償を求めた元患者らの訴えを認めた熊本地裁の判決(2001年5月11日)が出された。
またそれをうけて国が控訴を断念したこともまだ私たちの記憶に新しいことと思われる。
かつては「業病」といわれ、恐れられたハンセン病は、特効薬の開発で、いまでは治る病気であり、新たな発病者もごく少数である。
治る病気でありながら、国の施策によって強制隔離された原告の人権の回復がはかられるのは当然であるが、長い間社会に広がっていたこの病気に対する偏見を正していく方策も行政によって積極的に講じられなければならない。
モーニケは長崎と江戸間の往復の旅の途中で見た、この上なく悲惨なハンセン病者の姿を描写しているが、部落の起源をハンセン病に求めるモーニケの説は歴史的にみると裏づけのない説である。
モーニケの文章に接して、私はいくつかの部落史関係の文献を覗いてみたが、モーニケが主張しているような説はみうけられなかった。
たとえば、横井清は「病者は諸国の『非人宿』に身をおいた」と述べている。身分的処遇は非人であったとしている。
また上杉聡は、北陸地方でハンセン病者が「物吉(ものよし)」と呼ばれ、「エタ」、「非人」とともに賤民として処遇されていた例を報告している。
また上杉は「非人」のなかにハンセン病者が多く含まれていたことを述べている。
『キリシタンと部落問題』は、京都の例として、清水坂にできた非人の宿にハンセン病者が入り、生活するようになったと記している。
これらの文献では、ハンセン病と「エタ」あるいは「非人」との接点は触れられているが、これらの研究からみて、
ハンセン病者が「エタ」とされたというモーニケの説は学問的には実証できないのである。
モーニケの報告文の貴重な部分は、自らか体験した江戸時代末期の部落差別の体験を記録しているところにあるだろう。
モーニケは江戸から長崎への戻り旅の途次、ある晩(兵庫と思われる土地で)海岸に沿った砂丘を日本人の付け人たちと散歩をしていた。
モーニケの葉巻の火が消えた。後ろを歩いていた役人と奉公人に火を乞うたが、誰も火を付ける道具を持っていなかったので、足の早いものが近くの家から松明をもってきた。
しかしその家が「エトリ」の家とわかると、モーニケの手から松明は取り上げられ、松明を掴んだものは海水で手を洗い、松明を運んだものは、身体を清めるためと称して、海のなかに入ったのである。
そして、かなり離れた家からあらためて松明が取り寄せられた。すさまじいできごとである。
将軍と「エタ頭」との関係においても明白な差別がなされている。モーニケはそれについて記している。
元旦の祝賀には大名たちとともに「エタ頭」も祝賀の席に連なる。
その際、客には煙管と煙草入れ、火の付いた炭と炭入れからなる煙草盆が与えられるが、「エタ頭」には火のついた炭は与えられず、「自分で火を付けるために鉄と、石と火口が置かれていた」。つまり他のものとは身分がちがうということを見せつけている。
江戸では、モーニケは、「エタ」同様として差別される「女太夫」にことのほか注目し、同情の念をもって事細かに書いている。
社会的には極度に軽蔑される「女太夫」はモーニケの目にはどの女性たちよりもきれいであった。
「女太夫」という名称は大体乞食と同じ意味で使われるが、「彼女たちは一般に決して貧しくはなく、多くのものが裕福ですらある」とモーニケは記している。
この「女太夫」については、『部落史用語事典』の「とりおい」の項目が参照されてよいだろう。
「幕末には京阪では絶えたが、江戸では、非人小屋の女房娘を女太夫と称し、元日より中旬まで、木綿ながら、新服に改め、編笠に日和下駄の装いで三味線を弾き、一人あるいは、二、三人連れで人家に銭を乞いあるいた」。
モーニケの「女太夫」に関する記述は、この記載に合致するように思われる。
モーニケの報告文を全体としてみれば、誤解や日本人の偏見をそのまま記載している点も見受けられるが、自分の経験を書き記している点が貴重である。
モーニケの著作において、私たちは、当時の日本人の生活の一面を外国人の目でみるという興味深い場面に遭遇することになる。
そこにモーニケの著作の持つ意味があると思われる。
Cagotさん、コメントありがとうございます。
すごくいろいろなことをご存知ですね!
勉強になりました。
「アイザック・ドーマン」の来歴が興味深いですね。
中東ペルシャに生まれたアルメニア人というところが。
そんな人が見た日本を知りたいと思います。
良い本を紹介してくれて、ありがとうございます。
この記事を書いたかいがありました(^^♪