信者ではないけど、イスラーム教にはかなりくわしく、「日本のアニメがめちゃ好き!」というトルコ人の知り合いがいる。
そのトルコ人の女の子はアニメ「貧乏神が!」、「神様はじめました」、「ノラガミ」なんかを見て日本語のカミという言葉をおぼえて、神道の世界観に興味をもった。
それで日本の神についてあれこれ調べて、日本の神がどんな存在なのかあるていど理解した。
さらに調べていると、イスラーム教のアッラーを日本語にすると「神」になることを発見し、そのトルコ人は「ええっ!」とぶったまげたらしい。
アニメ「貧乏神が!」に出てくる貧乏神
海外にいるイスラーム教徒が神道の神を理解するのはなかなか大変だろうけど、日本人がアッラーを理解するのもきっと同じぐらいハードルが高い。
それでダイアモンドオンラインの記事(9/30)で、宗教社会学者の橋爪大三郎氏が著書『死の講義』から抜粋して、多神教と一神教の違いについて日本人が誤解しやすいポイントをこう指摘する。
一神教/多神教と聞くと、神さまの「数」の違いだと思う。たしかに数は違う。でももっと大事な違いがある。一神教では、「神は天地を、創造する(創造した)」と考えるのだ。
一神教と多神教のもっとも大事な違いは「神さまの数」ではなかった…!
神が創造したことで、さまざま自然物や生き物が存在するいまの世界が生まれた。
だから太陽も海も山も、花も人も犬もこの世にあるすべては神の意思、創造主があるべきと思ったからつくられたのだ。
一神教の神とは無から有を生み出す創造神(創造主)のことで、自然物や人でも神になれてしまう神道の神とはまったく違う。
多くの中のひとつではなくて、唯一無二の絶対な存在がキリスト教やイスラーム教の神。
この記事にネットの反応は?
・神の存在を信じてる奴って何なの?神がいるなら、根拠は何だ?
幽霊や妖怪と同じようなもんだ
・もののけ姫の祟り神を英語版ではデーモン。あんまりだろ!悪魔かよ!
・欧米のキリスト教は近代以降は影響力を失って無神論者か不可知論者が多いだろう
・宗教は信じたい奴だけ信じればいい
・日本じゃ神なんてそこら中にいるからな別に特別な存在でも何でもない
・キリスト教の神を800万分の1の存在にしてしまう 神道の大ざっぱさが好きw
・神はいない 宗教はあるけどな
神道での神に慣れ親しんでいる日本人には、「一神教では、神は天地を、創造する(創造した)」という発想は分かりづらいかもしれない。
『日本書紀』に書かれている神話によると、世界はつくられたのではなく、自然に発生したことになっている。
まずはじめに天地の分かれていない混とんの状態が存在して、それから軽く清浄なものが上にあがって天となり、重く濁ったものが沈んで大地ができた。
これが世界のはじまりで、このあと国常立尊(くにのとこたちのみこと)や国狭槌尊(くにのさつちのみこと)といった神々が誕生する。
これ以上のくわしいことは天地開闢を見てくれ。
ただ、神道に創造神がまったくいないとも言い切れない。
古事記には「天之御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)という神が登場していて、キリスト教の影響を受けた江戸時代の国学者・平田篤胤(あつたね)は、それを万物の創造神と考えたことはある。
でもこれは例外で、神道では一神教のような無から全てをつくり出す神はいないと考えていい。
ここまでくると、冒頭のトルコ人の驚きが理解できたと思う。
日本ではアッラーによってつくられたモノが神として崇拝されているし、どう考えてもアッラーと神道のカミはまったく違う存在なのに、日本語では「神」と同じ言葉になっている。
それでトルコ人は混乱しつつも、アッラーとカミは根本的に違う存在だけど、日本では同じ言葉で表現するのだと理解した。
アッラーの正確な日本語訳はアッラーで、それか創造神か創造主だろう。
キリスト教徒にとっても日本の神は分かりづらい。
戦国時代にやってきた宣教師フランシスコ・ザビエルも「神」の日本語訳で苦労した。
日本にキリスト教の神の概念はかけらもなかったから、協力者の日本人と一緒に考えて、いちばん適切と思った言葉が大日如来に由来する「大日」だった。
でもそのうち神と大日はまったくの別もので、これはとんでもない誤訳と気づく。
日本人の立場からすると、恵比寿神を「えべっさん」、伊勢神宮を「お伊勢さん」と呼ぶようなフレンドリー感覚で、イスラーム教やキリスト教の神をとらえないほうがいい。
さてさて20年以上前、中東にあるイスラーム教の国・ヨルダンを旅行したのですよ。
ヨルダンにはアカバ湾があって、そこで少し海に入ってみたり、浜辺に座ってぼ~っとしていると、ヨルダン人のイスラーム教徒がやってきて、「どうだ?気持ちいいだろう」と話しかけてきた。
「ここは乾燥してとても暑いから、風と水が気持ちいいですね」答えると、「そのとおりだ。それは偉大なアッラーのおかげだ。だからおまえもアッラーに感謝しろ」と言っておっさんが立ち去る。
このときは「は?」とワケワカメの状態だったけど、いまにして思えば、「おまえが気持ちいいと感じた水も風も、すべてアッラーの思し召しで創造されたモノのだから、慈悲深い偉大な神に感謝しろ」ということなんだと思う。
キリスト教徒やユダヤ教徒なら、このヨルダン人の言ったことがすぐに分かっただろうけど、自然物を神として、海や風に感謝する神道の考え方とはずいぶん違う。
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> 日本人がアッラーを理解するのもきっと同じぐらいハードルが高い。
もう、こういった表現をする時点で、「日本人にはほとんど理解ができない概念だ」と理解できますね。
「アッラー」とは神の名前ではなく、英語に翻訳すれば「The God」になるのですから。
> キリスト教徒にとっても日本の神は分かりづらい。
> 戦国時代にやってきた宣教師フランシスコ・ザビエルも「神」の日本語訳で苦労した。
そうですね~、今だったらどう翻訳するかな。「ザ・神様」というところじゃないですかね。少なくとも「神さま仏さま」の神様でもなければ、「カミさん(←女房の意味ではなくて「神様」の関西弁です)」でもないでしょうね。
まあそれにしても、唯一絶対の創造神によってこの世界が創られたのだとしたら、進化論も、物理学も、宇宙論も、現代科学はことごとく崩れ去ります。欧米人の科学者たちはそれを矛盾に感じないのかな?
何にしても、世の中の道徳・常識・慣習を人々へ教え込むのに「一人の偉大な架空人格」の存在を必要とするのは文明として遅れている証拠だと私は思いますがね。偉大なるカール・マルクスによる共産主義という思想はほとんど間違っていると確信していますが、ただし「唯物論的無神論」の部分だけは正しい思想であると、私は考える者です。
人類文明は、もうそろそろ、自分たちの先達としての「唯一絶対の神」を必要としない段階に到達してもいいと思うのですが、まだ無理かな・・・。