知ってましたか?「北斗の拳」とカンボジア(ポルポト時代)の意外な関係。

 

前回までに、日本の高速道路が「奇跡」だということ書いてきました。
今回は、第二の「奇跡」として、「券売機でのチケットを買える日本がすごい!」ということを書こうと思ってました。

でも、「週刊文春 四月二十一日号」で見つけちゃったんですよ。
漫画「北斗の拳」とカンボジアの関係について興味深い記事(インタビュー)を。

今、「東南アジア」の記事の目次をつくりながら、「この記事はアカンわ」というものを書き直していたところなんです。
だから、このタイミングで、この記事を見つけたときは、「マジかよ!」と、思わず口から出そうになりましたよ。

 

 

漫画「北斗の拳」の誕生には、ポルポト政権下のカンボジアが関係していたとは!

カンボジアに旅行した人なら、この「マジかよ!」という思いを分かってもらえると思う。
でもって、ポルポト時代のカンボジアにケンシロウがいてくれたら、という気持ちも分かってくれると思う。

 

ボクにとっては、北斗の拳とポルポト時代のカンボジアというのは、ベンメリアとラピュタの関係よりは興味がある。

ベンメリアがラピュタのイメージなった、というのは、どこまで本当かあやしい。まあ、どっちでもいいけど。

 

でも、北斗の拳とカンボジアの関係は本当。
北斗の拳の世界は、ポルポト時代のカンボジアが影響を与えている。

 

その「週刊文春 四月二十一日号」には、武論尊さん(「北斗の拳」の原作者)のインタビューが載っていた。

八二年秋。〈アンコールワット遺跡、旅行解禁〉という新聞記事が、三十五歳の武論尊さんの目に留まった。これが、後の作品に大きな影響を与えることになる。

 

後の作品っていうのが「北斗の拳」。

この記事とこのタイミングで出会ったというのは、「ポルポト時代のカンボジアと北斗の拳」を書け、という神の声に違いない。
もちろん、変な薬はやってませんよ!

 

ということで、ポルポト時代のカンボジアと北斗の拳の話を書いちゃいます。
最初に、ボクの大好きなカンボジアのアンコールワットとからめながら。

 

 

ボクが初めてカンボジアに行ったのは、1995年のこと。

初めての東南アジアで、「憧れのアンコールワットを見れる!」となって、ドキドキとワクワクは相当なものだった。

で、着いた宿で、早速ベテラン旅人から、こんな温かい歓迎の言葉をいただく。

 

「もう、アンコールワットは観光化しちゃってるから、あんまり見る価値はないね。カンボジアも、一昔前は面白かったんだけどさ」

こんなうれしいお言葉に、すっかり楽しい気分が吹き飛んで沈んだ。

 

「昔のカンボジアの宿にはさ、ガンジャ(大麻)が皿の上に山盛りになっていた。やり放題だったんだよ。「ウェルカム・ガンジャ」とか言っていたりしてさ」

そのときのボクは旅の経験が少なくて、彼が言うことのすべてを信じてしまった。
今から考えたら、どうだろう?

 

「インドの物乞いは、親が子どもの手足を切って、わざと障害者にするんだぜ」
というのと同じレベルの話じゃないか?

でも、旅行者がお酒を飲みながら言うことだから、まあ、面白ければいいのかも。

 

 

ちょっと話がそれる。
でも、これが公式のガイドだと、いただけない。
韓国のソウルにある景福宮の日本語ガイドが、こんなことを言っていた。

「この王宮は朝鮮出兵のときに、日本軍によって焼かれてしまいました」

いや、それ違うから。
王宮を焼いたのは、朝鮮の人民だから。

このことはこの後のブログで書く予定です。

 

 

話をカンボジアに戻す。

アンコールワットは今行っても、十分行く価値がありますよ!
「観光化」なんていう「オレ基準」のあいまいな言葉は、聞き流していいです。
それに、アンコールワットは、大正時代にはもう世界的な観光地になっていたしね。

 

あの旅人も、来るのがずい分遅かったなあ。
そんなに「観光化」するのがイヤだったら、アンリ・ムオより先に来たら良かったのに!

 

このアンコールワットを「発見した」のが、フランス人の「アンリ・ムオ」という人で、1860年のことになる。
この人がアンコールワットを初めて見たときの感想は、こんなものだった。

この寺を見ていると魂はつぶれ、想像力は絶する。ただ眺め、讃嘆し、頭のさ下るのを覚えるのみで、言葉さえ口に出ない。この空前絶後と思える建築物を前にしては、在来の言葉ではどうにも誉めようがないからである。
(アンリ・ムオ インドシナ王国遍歴記 中公文庫)

この建物は『クメール人』すなわち昔のカムボジァ人の天稟、力量、忍耐力、智能、富力及び権力が如何に優れたものであるかを如実に物語っているのである!(同書)

アンコール時代のカンボジアはすごい!

 

Map-of-southeast-asia_900_CE

この面積(9世紀ごろ:ウィキペディアから)を見ると、現在の中国・ベトナム・タイ・ミャンマーにも及ぶ大帝国を築いている。

 

ちなみに、アンコールワットを築いたスーリヤヴァルマン2世が鎌倉時代が始まる少し前の時代の人になる。
でもって、アンコールトムやバイヨン寺院を築いたジャヤーヴァルマン7世は、源頼朝と同じ時代に生きていた。

 

でも、平家物語にある「おごれる平家もひさしからず」で、この栄光あるカンボジアも、隣国タイの台頭とともに、だんだんと衰退していく。

 

ここでもう一度、上の地図を見てほしい。

これを見ると、現在のタイのほとんどの部分がカンボジアの領土だったということが分かる。
実際、この時代のカンボジア人とシャム人(タイ人)と力の差は歴然としていて比べものにならない。

アンコールワットの南側回廊には、この時代のカンボジア人とシャム人の力関係が分かる壁画ある。
カンボジア軍の兵士として連れて行かれるシャム人の姿がある。

ガイド「これが兵士となったシャム(タイ)人です」

 

この時代、カンボジア人がシャム族の支配者で、シャム族は戦いのときに使われる兵士だった。
このことを考えると、今のカンボジアとタイとは、はまったく違う。
旅行に行くと分かるけど、現在のカンボジアタイとでは、国の発展の度合いは、もう、比較にならない。

 

この差が生まれた理由は、いくつもある。
19世紀後半、タイは日本と同じくヨーロッパの植民地にならなかったことは、とても大きい。
東南アジアでは、ただ一つの独立国だったしね。

カンボジアは、フランス植民地になっていて、自分たちの手で国を動かす経験がなかったということが、両国の差が生まれた理由の一つになる。

けど、タイとカンボジアの間で、「決定的な差」をつけられたのは、カンボジアでポルポト政権が生まれたことだろう。

「ポル­=ポト政権」

1975年にカンボジアで成立したポル=ポト(?~1998)の急進左派政権。都市から農村への強制移住、通貨の廃止、反対者の大量虐殺などをおこなった。文化大革命の影響を受けて中国に接近し、隣国のベトナム・ラオスとは対立した

(世界史用語集)

この大量虐殺の犠牲者は、一説には、150万人にものぼるという。
この時代のカンボジアが、「北斗の拳」にどう影響を与えたのか?
について、次回に書いていきたい。

ちなみに、「アンコールワット」って、もとはサンスクリット語で、アンコールが「都市」でワットが「寺院」になります。

 

 

よかったら、こちらもどうぞ。

東南アジ 「目次」

日本 「目次」

東南アジアをさらに一歩、深っく知ろう~まだまだ続くよ、サンスクリット~

そしてカンボジアは、地獄と化した「トゥールスレンとキリングフィールド」~ポルポト政権下のカンボジア人②~

日本という「アジアの光」 ②~インドネシア・フィリピンなどからアジアから見た日露戦争~

 

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ABOUTこの記事をかいた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。