大学が京都にあったから4年間そこに住んでいて、「京都人の言い方ってなんか独特だなー」と感じたことが何度かあった。
あるとき京都人の女の子と静岡出身のボクと、横浜出身の人間(オス)の3人で話をしていたときのこと。
「京都人はプライドが高いって聞いた。京都タワーより高いと」と横浜人が言うと、「そんなん大げさやわー。比叡山よりちょっと低いぐらいですよ」と京都人が笑う。
参考として京都タワーの高さは131 mで、比叡山は848m。
*これを含めて以下、京都人が話した京都弁、おっと『京ことば』はボクの想像なので、正確かどうかは知らない。
ボクが京都タワーを『京都のシンボル』と表現すると、こう言い返す。
「京都の人の中にはそういう言い方を聞くと、気を悪くする人もおると聞いたことがあります。だから、”シンボル”は言わんほうがええかもしれませんねぇ。でも、京都タワーが好きな京都人ももちろんいますよ。あそこの上から京都の街を見わたすと、京都タワーが見えませんから」
このあと別の人からも同じ話を聞いたから、この「京都人が京都タワーが好きなワケ」はけっこう有名な話かもしれない。
こんな感じで京都人のことばは丁寧だけどどこか毒があって、エスプリが効いていると何度か思った。
冗談や大げさな表現を交えて世の中のアレコレを説明するアンサイクロペディアでは、京都人についてこう書いてある。
京都人は関西人の中でも言葉遣いが乱暴ではなく上品に聞こえる。ただ、上品に聞こえるだけであり、オブラートに包もうが毒物は毒物。言葉の暴力であることには違いない。
京都タワーについては昔から、古都にこんな建物が必要かどうか賛否が分かれて、熱い議論が交わされていた。
建設当時は「東寺の塔よりも高いものは建てない」という”暗黙のルール”があったようで、政治家や経済人らの推進派と学者や文化人らの反対派によって、日本初となる都市の美観論争が繰り広げられた。
その後紆余曲折、なんだかんだあって、京都タワーは法規制が厳しい建築物ではなく「工作物」として建設された。
ただし『景観』にはちゃんと配慮している。
東京タワーのような鉄骨むき出しではなくて、京都タワーは白い円筒状の優雅なデザインが採用されたのだから。
これと同じように、タワーをめぐる景観論争がフランスのパリでもあったことをきのう知った。
白く優雅な京都タワーとは違い、エッフェル塔は鉄骨の骨組みをそのまま見せている。
これには風の影響を少なくするという利点があったものの、当時のパリに住んでいた芸術家や文化人からは「醜悪な建造物」とボロクソ言われた。
批判派はやっぱり作家や画家などの芸術家が多く、1887年のフランス紙「ル・タン」紙にはそうした”美”を愛する人たちによるこんな抗議声明が載せられた。
われわれ作家、画家、彫刻家、建築家ならびに、これまで無傷に保持されてきたパリの美を熱愛する愛好家たちは(中略)エッフェル塔の建築に対し、無視されたフランスの趣味の名において、また危機に瀕したフランスの芸術と歴史の名において、あらん限りの力と憤りを込め、ここに抗議するものである。
京都タワーのときもこれとまったく同じ主張があったはず。
反対派の文学者モーパッサンはエッフェル塔にあるレストランによく通っていた。
その理由をきかれたモーパッサンの答えがこれ。
「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」
ここから「エッフェル塔が嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということばが生まれたという。
冒頭の話の元ネタはまず間違いなくこれだ。
でも京都人の場合は「京都タワーが”好きな人”」ともっとエスプリを利かせている。
「花の都」の住民は文化や美に対してとてもうるさいらしい。
そういえば、批評精神に満ち、軽妙で辛らつなことばを当意即妙に述べる才能を意味する エスプリ とはフランス語(esprit)だ。
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