日本の大学に通っていて、いまは母国に戻って生活しているドイツ人とこの前の日曜日に話をした。
そのとき彼が最近ユーチューブで「神棚」について説明する動画を見て、「面白かったです!」とうれしそうに言う。
「神棚には3人の神さまがいて、真ん中は一番重要なアマテラスで右には村の神、そして左には自分の信じる神をまつっているんだよね。」
と言われて、内心の動揺を隠しつつ「そうだね。中央がアマテラスアマテラス」と返したけど、あとで調べてみたらチョット違う。
まず神棚は伊勢神宮の正殿のような神明型が多くて、そこが札(神札)を納められている。
そして扉の数によって、「一社造」「三社造」「五社造」のように分けられる。
よくある「三社造」では真ん中にアマテラス、向かって右に氏神、左に崇敬神社(自分が崇拝している神社)の札をまつっている。
知人の「ツボ」がよくワカランのだけど、このドイツ人は動画で、日本人が神棚に家族の安全や幸せを願うようすを見てうれしかったらしい。
仏教のダルマとかよく分からない像とか置いてあって、もうラーメンのトッピング「全部乗せ」状態。
いろいろ災いから家や家族を守ってほしい。
そんな家内安全の願いはドイツ人にもあるだろうから、あちらにも神棚のようなものがあるのだろうか?
それを聞いたら、「あるワケないよ」と即答、もしくは一蹴。
でもそのドイツ人の義理の父親は、イエス=キリストを生んだ聖母マリアの絵を家の壁に高いところに貼っていて、ときどき家族の安全を願っていると言う。
だからドイツの文化ではなくて、個人的にそうする人はいるらしい。
でもそれはキリスト教(カトリック)の信仰が篤い南ドイツの話で、北ドイツの人はそんなことをしないだろうとのこと。
ただ日本の神棚のように、お餅や酒などのお供え物はしない。
カトリック信者の間では、マリアを仲介者として神に願い事をするマリア崇敬(すうけい)という考え方がある。
一神教のキリスト教では、「崇拝」は神に対してだけに行う行為。
だからマリアやほかの聖人には「崇敬」という言葉を使うのだ。
これは昔のヨーロッパでの話。
14世紀では、マリアは憐れみ深い仲裁者、人類の保護者として大きな人気を得るようになった。ペストのような疫病が大流行している間、マリアの助けはまさに神の裁きから庇ってくれるかのように思われた。
カトリック教会の聖母マリアへの祈祷で、「こんにちは、マリア」「おめでとう、マリア」を意味するラテン語「アヴェ・マリア」(Ave Maria)という言葉をどこかで聞いたことのある人もいるのでは?
歴史上のマリアとイエスは中東のアジア人だから、こんな白い肌じゃなかったはず。
繰り返しになるが、聖母マリアを崇拝する行為はキリスト教では厳禁だ。
といってもカトリック教会のマリア崇敬を、「それはマリア崇拝だ!」と批判するプロテスタントもいるから、このへんの事情や定義はかなりややこしや。
一般的な日本人からしたら、マリアの絵に向かって手を合わせて祈る信者の姿は、観音菩薩にお祈りをする仏教徒と変わらないと思う。
ということで、知人のドイツ人の知っている限りでは、日本の神棚に一番近いものはマリアの絵というのは分かった。
でも、なんで神じゃないのか?
神棚には神道の最高神・アマテラスが最も重要な神として真ん中にいて、この神だけは絶対に外せない。
だから聖人のマリアではなくて、そのはるか上位にいる神の絵や像に直接祈ればいいのでは?
そんなことを聞いたら、彼にもその理由はよく分からない。
昔から南ドイツでは、聖母マリアの像や絵を「家内安全」のような感覚で家に置く人がいるけど、キリストのものは見たことないと言う。
こっちも、「なんでブッダではなくて、観音菩薩に祈るのか?両者にはどんな違いがあるのか?」と聞かれてもよく分からんし、どこの国の伝統や文化でもアイマイな部分はあるものだ。
でも家族の健康安全、幸せを願う気持ちは人類共通のはず。
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