【江戸から明治】東京誕生の背景・旧幕府側の怨みとその後

 

きょう10月13日は長い長い日本の歴史の中でも、最重要レベルの「お引っ越し」が行われたことから、引っ越しの日になっている。
1868(明治元)年のこの日、京都を出発した明治天皇が江戸城(現在の皇居)に入った。

 

この年に京都で行われた鳥羽・伏見の戦いで大敗した徳川慶喜は、大阪から江戸城へと船で逃げのびる。
天皇が明治新政府の側につき、自分たちが「賊軍」となったことを知った慶喜は戊辰戦争の敗北を認めて、西郷隆盛と勝海舟が話し合った結果、1868年5月3日に江戸城が新政府軍に明け渡されることに決まった。
これが江戸幕府が滅んだ瞬間でもある。
でもそれと引き換えに、徳川慶喜の命と徳川家の存続は認められたから、慶喜は水戸へ退隠し、徳川家は田安亀之助(徳川家達:とくがわ いえさと)が相続して駿河(静岡)へ引っ越した。

7月には江戸の地名を「東京」に改称することや、天皇が江戸で政務を執ることを宣言する「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が明治天皇から発せられる。
これがその現代語訳デスヨ。

「私は、今政治に自ら裁決を下すこととなり、全ての民をいたわっている。江戸は東国で第一の大都市であり、四方から人や物が集まる場所である。当然、私自らその政治をみるべきである。よって、以後江戸を東京と称することとする。これは、私が国の東西を同一視するためである。国民はこの私の意向を心に留めて行動しなさい。」

そして天皇が京都から東京へ移動(東京行幸)し、10月13日に江戸城へ入って「東京城」と改称された。
翌11月の6日と7日、東京の庶民は仕事を休んで酒を飲んだりお菓子を食べたりしながら、天皇の到着を祝い、欧米諸国も明治政府を日本の中央政府として正式に承認した。

そのあと一度京都へ戻った天皇が翌年1869年に改めて東京入りしたことで、東京が事実上の日本の首都となって現在にいたる。

*京都には天皇と首都の座を”奪われた”悔しさがあって、東京へ行くことを「上京」とはいわず、「東上」なんて言い方をする人がいまでもいる。

 

明治天皇の東京行幸

 

当然、東京を許せなく思っている人たちもいた。

先祖代々、江戸城で徳川家に仕えてきたのに、その明け渡しと静岡行きを命じられた旧江戸幕府の人間の思いを、同じく幕府の役人だった福沢諭吉がこう書いている。

忠義心の堅い者は東京を賊地と云て、東京で出来た物は菓子も喰わぬ、夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ、東京の話をすれば口が汚れる、話を聞けば耳が汚れると云う

「福翁自伝」

 

そうは言っても時代には勝てず、彼らはこんな怨みを抱えたままこの世を去ったのだった。
…というワケでもない。

1年2年たつと静岡を出て東京へ行き、彼らは明治政府から仕事をもらうようになる。
「トウキョウ」と聞けば耳が汚れるというほど嫌っていたのに、政府の要人と面会すると「兼(かね)てご存知の日本臣民で御座(ござ)る」と軽い感じであいさつし、前に言ったことはただの「戯(たわぶ)れのみ」という。
前はツバを吐いた相手に、いまはシッポを振る。
そんな旧幕府の人間を明治政府は快く受け入れて、「双方打解けて波風なく治まりの付たのは誠に目出度い」と福沢諭吉は書く。
でも福沢は、このハッピーエンドには少し不満だったらしい。
高い身分になり、嬉しがっている旧幕府の人間を見て「気に喰わぬ」とも書いている。
でもまぁ同じ日本人同士なんだから、仲良くしましょうよ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。