【鉄道開通】明治の横浜はこれほど多文化、国際的だった

 

最近はコロナもだいぶ落ち着いてきて、しかも季節はもう秋。
旅に出かけるには良いタイミングだから、どこへ行くかは運しだいのこんな「旅ガチャ」がいま話題らしい。

 

 

空の旅も良いけれど、のんびり揺られる電車の旅もよし。
きょう10月14日は、日本で初めて鉄道が開通したことを記念して「鉄道の日」になっている。
イギリス人のモレルを雇い、彼の指導で計画が進められ、1872(明治5年)のこの日に東京の新橋駅と神奈川の横浜駅(現:桜木町駅)との間で鉄道が正式開業した。
ちなみに当時は「陸蒸気」と呼ばれた。

 

いまの横浜駅があるところは、幕末のころは人も建物も、マジで何もなかった。
というのは当時そのあたりはまだ「海」で、いるとしたら魚をつかまえる漁師ぐらいか。
明治維新のあとから高島 嘉右衛門(たかしま かえもん)らが、土を「どさーっ」とぶち込む埋め立て事業を行って陸地をつくり、そこに鉄道が敷設されたのだ。

横浜港の埋め立て事業をしたり、鉄道開通と同じ1872年に日本初のガス灯を横浜にともしたりして、横浜の発展に貢献した高島 嘉右衛門は「横浜の父」と呼ばれている。
ただの海を、現在の未来都市に変える土台を築いたのだから、「横浜はワシが育てた」と高島なら言える。
ちなみに高島は占いでも有名で、占いとは「売らない」であるとシャレたことを言って金品を受け取らなかったという。

 

1872年の現在の横浜駅あたりを走る蒸気機関車を見ると、本当に海の真横を通っている。

 

さて、大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」が起きた1878年(明治11年)に、イザベラ・バードというイギリス人女性が日本へやって来た。

 

 

日本の入り口である横浜港に着いたとき、彼女はその印象をこう記している。

わたしの受けた第一印象は、この国はよく統一されているというものです。上陸したとたん、サンパンや人力車の料金表、掲示板の広告文、きちんとした警察官、乗り門の提灯、外国紙幣の拒絶、郵便規則などなど、『規則』に出会うのですから。それにこれも言わなければならないでしょうか。ぼられることがまるでないのです!

「イザベラ・バードの日本紀行  (講談社学術文庫) 」

開業したころの横浜駅

 

これがイザベラ・バードが見た明治の横浜駅のようすだ。

玄関は広々としており、切符売場は英国式である。等級別の広い待合室があるが、日本人が下駄をはくことを考慮して、絨緞をしいていない。

「日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)」

 

高級品の絨毯(じゅうたん)を敷いたところで、乗客の下駄ですぐボロボロになるのは目に見えているから、そういうムダは省いたのだろう。
汽車が終点の新橋駅に着いたときには、「合わせて四百の下駄の音は、私にとって初めて聞く音であった」と書いているから、すさまじい音だったはず。

当時と現在の横浜駅の違いは、多文化共生が明治のはじめに実現していたこと。

切符売り《これは中国人》、車掌と機関手《これは英国人》、その他の駅員は、洋服を着た日本人である

「日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)」

 

先ほどの用語集に「鉄道敷設計画は、イギリス人モレルの指導下」とあったように、日本の鉄道はイギリス人の指導を受けて完成したから、知識や経験のある彼らに車掌と機関手をまかせるのは当然。
日本人の乗客が買った切符を中国人が切って、イギリス人が運転する汽車で新橋へ行く。
これだけを見れば明治時代の横浜は、いまでは考えられないようなインターナショナルな空間だった。
ちょっと前までは、ただの海だったのに。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。