バレエの名作『くるみ割り人形』に中国人差別の指摘→ハイ改変

 

日本の顔となる東京駅は1914(大正3)年の12月18日に誕生した。
この年は第一次世界大戦がぼっ発してヨーロッパは地獄と化したのに、東洋の島国はガラパゴス的な平和を保っていたらしい。
とにかく毎年この日は「東京駅完成記念日」になっている。

で、視点を北のロシアへ移すと、その20年ほど前の1892年12月18日は、チャイコフスキーのバレエ『くるみ割り人形』が初めて上演された日になる。
いまでも世界的に有名な『くるみ割り人形』、『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』の「3大バレエ」を作曲したのがこのチャイコフさん。
クリスマス・イヴにくるみ割り人形をプレゼントされた少女が、その人形と夢の世界を旅するというのが『くるみ割り人形』の内容だから、クリスマス・シーズンになるとよくこれが上演される。

でも、この名作がいまピンチ。
といってもなくなるワケではなくて、この作品に出てくる「中国の踊り」に人種差別の指摘が浮上したから、そのままでは済まされなくなった。
この場面では、西洋人のダンサーが肌を黄色くすることや、誇張されたステップをすることでステレオタイプの中国人のイメージを表現していることから、ベルリン国立バレエ団が人種差別的と判断してその部分を修正することにした。
詳しい内容はここをクリック。

くるみ割り人形・人種差別的な演出への対応

 

現代の価値観や人権意識に照らし合わせて、バレエの内容が見直されることになるから、もうオリジナルの『くるみ割り人形』は見ることができなくなる。
ただこれはベルリン国立バレエ団の判断だから、すべてこうなるかはわからん。

ただ当の中国人からは、「これはひどい!われわれへの差別だ!」といった怒りの声は上がっていないし、中国のバレエ団も『くるみ割り人形』を上演しているという。
だから、100年以上前の価値観や表現を消してしまう、まるで「検閲」のような判断には反論の声もある。

ちなみに日本のネット裁判員の意見だと、「ふざけんな」がほとんど。

・蝶々夫人や王様と私やミスサイゴンも無くなりそう
・どんどんめんどくさくてつまんない時代になってくな
・これ言ったら自国内が舞台の演目しか上演できないじゃん
・差別差別言い出したら昔のものは消えまくる
・それはそれで残しておけよ、それで新しいの作れよ。
シン・くるみ割り人形とかさ

…なんてことを言っても、この中でお金を払って『くるみ割り人形』を見に行く人はきっと皆無。

 

『くるみ割り人形』の中国の踊り。
これが人種差別的と指摘されたものかは不明

 

時代と一緒に人びとの意識や価値観も変化するから、社会で使われる言葉もそれに合わせてトランスフォームしないといけない。
そういえば最近、「スチュワーデスってなに?聞いたことない」という20代の日本人がいて、昭和生まれのボクとしては衝撃的だった。
人種・宗教・性別の違いによって偏見や差別を招かないような、清く正しく中立的な言葉を使うことを「ポリティカル・コレクトネス」という。
この考え方によると、女性を表すスチュワーデスは適切ではないから、いまでは「客室乗務員」や「キャビンアテンダント (CA)」へと呼び方が変えられた。
日本航空がスチュワーデスの呼称をやめたのは1996年だから、「スッチー」を知らない日本人がいてもおかしくない。
ポリコレによってほかにも、「肌色」が「ペールオレンジ(うすだいだい色)」と言い換えられるようになったし、「兄弟」も読み方はそのままで「きょうだい」と表記するようになった。

 

東京駅が新しく生まれ変わって、より便利で快適になるのはいい。
そんな満場一致とは違って、現代の価値観に合わせて原作に手が加えられることには、(その程度や内容にもよるが)海外でも賛否が分かれている。
でも全体的にはポリコレが重視されているから、「差別的だ!」の批判が上がってある程度の共感を集めると、バレエの古典的名作でも聖域ではなくなって、もはや改変はまぬがれない。

国際化や情報化で国境がカベにならなくなったいまはもう、海外では第一次世界大戦が始まっているのに、国内では東京駅の完成を盛大に祝っていられるような時代じゃない。
中国を「支那(シナ)」と呼ばないことは当然として、「中国人女性というとお団子ヘアがお約束」みたいなステレオタイプのイメージは、まあ持っていてもいいけど、それをコトバにするときには注意が必要だ。

 

「支那そば」が「ラーメン」に言い換えられるのもポリコレの具体例

 

 

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2 件のコメント

  • ブログ主さんもおっしゃる通り、昨今、世界(特に欧米)の潮流であるポリティカル・コレクションなんですが、ここまで来ると、少々、白人たちの思い上がり・差別感覚を感じてしまいます。あたかも「世界の人権思想は我々が決めるのだ、有色人種たちは黙って従え!」とでも言わんばかり。これ、エマニュエル・トッドが言うところの、「米国における民主党系白人エリート層の、隠された人種差別思想」に類似のものじゃないですかね?
    せめて、文化登用や民族差別を糾弾する前に、その登用・差別された側が実際にどう感じているのか、確認してみるだけの謙虚さを持ったらどうなのか。
    彼らは、「多文化共生・尊重」なんて考え方、本当はこれっぽっちも理解するつもりはないのでしょう。ただただ、「リベラルは正義であり弱者の味方」と訴えて、マイノリティからの票がほしいだけ。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。