豆、仏教、スイカ…。中国僧・隠元さんが日本に与えた影響

 

先日4月3日は「インゲン豆の日」だった。
ゴーヤ、セロリ、ピーマンと違って、インゲン豆は子供たちからあまり嫌われることがない。
かといって「好きな野菜ランキング」のトップ10にも入ってないし、ビールとタッグを組んだエダマメさんは強敵すぎる。
でもインゲンは全国のスーパーで売ってるポピュラーな野菜だ。
南米大陸に古くからあって、アステカ帝国では税の一つだったインゲンは大航海時代にヨーロッパへ伝わり、そのあと中国へもたらされた。
この豆を日本に紹介して、名前の由来となったといわれるのが中国の仏教僧・隠元隆琦(いんげん りゅうき)で、彼の命日の1673年4月3日にちなんでこの日が「インゲン豆の日」になっている。
だからといってこの日、近所のスーパーでインゲン豆の特売はやってなかったのだが。
マム、おまえのことだ。

 

仏教僧にしてはフサフサ頭の隠元さん

 

江戸時代が始まったころ、長崎で貿易をしていた福州出身の中国人が、自分たちのお寺をほしいと思うようになる。
それで超然(ちょうねん)という福州の僧を招いて、崇福寺(そうふくじ)を建てる。
日本にある中国スタイルのお寺としては、これが日本最古のものだ。
その後、このお寺を任せられるような、有能で徳のある僧として隠元が呼ばれ、鄭成功が用意した船に20人ほどの弟子と一緒に乗って1654年に長崎へ到着。

中国から新しい仏教思想をもってきて、さらに人格者だった隠元はセンセーションを巻き起こし、興福寺には数千人もの僧や一般人がやってきて大盛況だったとか。
このあと大阪のお寺へ移った隠元さんは、ここでも人気が爆発。
パニック状態になることを避けるため、江戸幕府はお寺でイベントが開かれる時には、一度に入れる人数を200人以内に制限した。

でも、もともと日本に3年いたら中国へ戻るという話だったから、その時が近づくと隠元は帰国を決める。
それを告げると周りの人間は、「それはとても残念ですが、約束なら仕方ありません。最後にお別れの宴会をさせてください。」と悲しそうにほほえんだ。…みたいな展開は特になく、こんな優秀な人材を手放したくない! と思った人が続出したようで、「隠元を中国へ帰しません作戦」が決行される。
それで4代将軍・徳川家綱と会見して、いろいろ話してるうちに、なんかお寺をつくることになっちゃって隠元は京都に萬福寺を建立した。
*このお寺は建物や仏像の様式などが中国風で、日本によくあるお寺とは一線を画しているらしい。
日本の三禅宗の一つで、隠元が始めた黄檗宗(おうばくしゅう)はこの萬福寺を中心(本山)にして広がっていく。
「隠元人気」は変わらず、というかむしろエクスプロージョンして、後水尾法皇という当時の日本では最高位にいた人間のほか、皇族や幕府の要人、さらに各地の大名や商人が隠元に帰依した。
でも結局、母国へ帰ることはなく、異国の島国で亡くなることを本人はどう思ったのか。

 

隠元さんが日本に与えた影響はわりとデカいのだ。
萬福寺のホームページによるとインゲン豆のほか、スイカ、れんこん、・孟宗竹(たけのこ)、木魚も隠元さんが日本に伝えたという。
煎茶道(せんちゃどう)を始めたのもこの人と言われている。

日本の仏教や文化の発展に貢献したことが高く評価されて、隠元隆琦(いんげん りゅうき)には後水尾法皇から「大光普照国師」の名が与えられた。
以後、50年ごとに皇室から諡号(しごう:生前の行ないを称賛しておくる名)を賜わることが慣例となる。
最近でいうと、1972年(昭和47年)に昭和天皇より「華光大師」、ことし令和4年には今上天皇から「厳統大師」の名が与えられた。
ひょっとしたら隠元さんは中国よりも、日本での方が有名かも。

 

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。