きょう7月14日はペリー上陸記念日であり、廃藩置県の日でもある。
1853年7月14日、ペリー率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れて、開国を求める米大統領の親書を幕府に渡す。
これで国を開いた日本では戊辰戦争が起きて、徳川幕府は崩壊し明治新政府が爆誕。
そして江戸時代の“残りもの”だった全国の藩を廃止し、県を置くことにする廃藩置県の詔書が1871年7月14日に出された。
そして明治日本は欧米列強をモデルにして、近代国家への道を突っ走る。
言葉で書くだけならカンタンなんだが、当時の外国人の常識からすると、この14年間の日本の変化は驚異的だ。
アメリカ人のシドモアはこう書く。
古い秩序の突然の放棄、そして近代的秩序の出で立ちで武装する国民皆兵が、直面する危機解決の最も現実的永続的手段としてただちに導入された事は、少なくても欧州の間ではたいへんな驚きでした
「シドモア日本紀行: 明治の人力車ツアー (シドモア日本紀行 講談社学術文庫) 」
皇居で廃藩置県が伝えられたときの様子
最後の将軍・徳川慶喜が「政権をお返しいたします」と大政奉還をして、1868年に明治天皇が「王政復古の大号令」を出す。
ただこれは、日本の政治を行なう中央政府が幕府から朝廷へ移っただけにすぎない。
このあと明治政府が誕生しても、全国各地にはまだまだ大名の治める「藩」があって、政府はそのままでは中央集権化を進めることができなかった。
それで江戸時代の在庫一掃、クリアランスをする。
日本中の藩を一気に無くし、県に置き換えてしまう。
この廃藩置県によって、明治政府から派遣された県知事(県令)がその地方を統治することになり、江戸時代の藩は名実ともに完全消滅する。
ちなみに大名領を「藩」と呼ぶようになったのはこのときからで、江戸時代の日本人は「~藩」なんて言い方をしていなかった。
この政策断行で、全国の大名や藩士は武士としての地位を失うコトとなる。
でもこれでそれまでの藩の借金が無くなったり、明治政府が引き受けたりしたから、それなりのメリットもあった。
悲惨なのは貸し手の商人たちだ。
この処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。(中略)大名貸し商人の多かった大阪(大坂から改称)は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となった。
江戸時代の古い秩序をとつぜん放棄し、近代的秩序の明治日本に生まれ変わったスピードは、外国人からしたら想像を超える早さだった。
でも、そのひずみは当然ある。
幕藩体制という政治体制とは本来なら1ミリも関係なかったのに、破産した大名貸(だいみょうがし)の商人は間違いなくその犠牲者だ。
令和のいまとなってはもう、その叫び声も聞こえないけれど。
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