朝鮮の壬午軍乱:日本人を激怒させた、閔妃と大院君の争い

 

1882年のきょう7月23日、朝鮮の首都・漢城(ソウル)で「壬午軍変」(じんごぐんらん)がぼっ発。
この惨劇について、目撃者となったロシア人はこう記す。

「朝鮮は一瞬のうちに、凄まじい殺戮の舞台と化した。父親たちが子供たちに武器を向けたのである。ソウルでは8日間、無差別の流血が止まらなかった。」

このとき暴徒によって、漢城にいた多くの日本人も殺害された。
なんでこんなことが起きたのか?

 

幕末に西洋諸国が近づいてくると、日本では開国すべきか、それとも鎖国をつづけるべきかでモメにもめた。
でも結局は開国し、明治日本になると「鎖国ってなんだっけ?」というレベルで、欧米列強をモデルに政治や軍隊、経済などを積極的に学んで近代国家へと成長していく。
江戸時代の日本はオランダとは交流があって、そこから国際情勢についての情報をゲットしていたが、朝鮮は厳しい鎖国政策をとっていて、西洋を一切シャットアウトする。
でも、中国(清)とは深いつながりを持っていた。

でもさすがに19世紀の末期になると、そんなことも言ってられなくなって国を開く。
そして朝鮮国王・高宗の王妃である閔妃(ミンビ、びんひ)を中心とする閔氏政権は、日本の支援を受けて開化政策を進めることにした。
具体的には、近代的な軍隊を必要としていた閔氏政権はすでに先を進んでいた日本から、軍人の堀本 禮造(ほりもと れいぞう)を招き、西洋式の軍隊である「別技軍(べつぎぐん)」を新設する。
別技軍に期待大だった閔氏政権は日本の新式小銃や最新の武器や弾薬を装備させ、それまでの旧式軍隊より高い給料を兵士に払っていた。
旧軍の兵士は当然、この差別的待遇に恨みや不満をつのらせていく。

このとき閔妃は義理の父親(高宗の父親)にあたる「大院君(興宣大院君)」と、どっちが朝鮮の統治者になるかの権力争いをしていた。
相手側の人間を殺し合って、互いの勢力を削るほど壮絶に。

 

閔妃(かもしれない人物)

 

「壬午事変」が起きたのはそんなタイミングだ。
1年以上も給料(金ではなく米)をもらってなくて、もはや「イラナイ子」のような扱いを受けていた旧軍の兵士に、やっと俸給米が支給された。
と思ったら、それはわずか1か月分だけ。
しかも、砂や腐った米が混ざっていたから、これで兵士たちの不満は大爆発した。
武器をとって暴動を起こすと、閔妃ら政敵を排除して、再び政権を奪おうと考えていた大院君がこのビッグウェーブに乗っかる。
というか、この武装蜂起をウラで操っていたのが大院君だった。

兵士らは閔妃をメインターゲットに定めて一族の邸宅を襲撃し、王宮(昌徳宮)にも乱入して数名の高級官僚を惨殺する。
閔妃の逃げ足は速かった。
自発的か命じられたか知らんけど、侍女が閔妃の部屋で毒薬を飲んで自殺すると、それをカモフラージュにして閔妃はうまく脱出する。
「朝鮮は一瞬のうちに、凄まじい殺戮の舞台と化した。」というロシア人の記録はこのときのものだ。
閔妃政権を支えていた日本人もこの惨劇に巻き込まれ、先ほどの堀本 禮造や日本公使館員ら約15人が暴徒となった朝鮮人に殺害された。

 

襲撃される日本公使館

 

反乱軍から逃げる日本公使ら一行

 

この壬午(じんご)軍乱によって、閔妃らの勢力は中央政府から一掃されると、約10年ぶりに大院君が政権の座について別技軍を廃止する。
ただこの混乱に乗じて、朝鮮に対する影響力を強めようとした清は大院君を捕まえて清国へ拉致して、閔妃政権を復活させた。
多くの日本人が暴徒に殺されたことが日本に伝えられると、国民は大きな衝撃を受け激怒した。

日本国内では朝鮮に対する即時報復説が台頭した。国内各地から義勇兵志願者が殺到し、朝鮮におもむいて暴虐きわまりない「野蛮人ども」と戦うことを許可するよう強く求めた。

壬午軍変

 

歴史の「タラレバ定食」を言い出したらキリがない。
でも閔氏政権と日本が組んで、あのまま朝鮮の近代化を進めていたら、いまはまったく違う日韓関係があったはずだ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。