「ロシアはヨーロッパの国なのか、それともアジアか?」
そんな質問を日本に住む20代のロシア人女性にしたところ、「その両方。ロシアはデカいから、西側はヨーロッパ・サイドで、東側はアジア・サイドになる」とのこと。
日本の約45倍という、途方もなく大きいロシアはどっちか一つではなくて、ヨーロッパとアジアの2つの要素のある国と考えたほうが正確だ。
そのロシア人は北欧に近い都市サンクトペテルブルクの出身だから、ロシアのヨーロッパ文化圏に住んでいたことになる。
そのあたりは伝統的にキリスト教(ロシア正教会)の影響が強く、白人が多いし、たしかにヨーロッパの要素が満載。
でもフランスやドイツなどのヨーロッパ諸国との決定的な違いは、ロシアには「タタールのくびき」という不幸な時代があること。
日本で世界史を学んだ人なら、教科書でこの単語と出会ったはず。
でも、「何だかよくワカリマセンでした」という人が多いと思われる。
ということで今回はロシア人の話を交えながら、「タタールのくびき」について説明しよう。
まず「くびき(軛)」というのは馬や牛などのデッカイ動物をつなぐとき、首に付ける木製の棒状の器具のこと。
日本語でも「首根っこをつかむ」という言葉があるように、急所である首を押さえられると抵抗できなくなって、その人間の意のままに従う状態になる。
ロシアにはタタール人からそんなムゴイ扱いを受けた歴史があった。
2頭の牛をくびきでつないでいる。
画像:Cgoodwin
いまのロシア南東部やウクライナのある広い地域はかつて「ルーシ」と呼ばれていて、13世紀ごろには東スラブ人によるいくつもの「ルーシ諸国」があった。
ロシア人の話では、そのときは日本の戦国時代のような分裂と対立の状態にあったという。
そこへ東からモンゴル人が馬に乗って、「どぅおりゃあああ!」と怒とうの勢いで攻めてくる。
そんなモンゴル人の侵攻を何度か受けて、ルーシの人たちは女も子供も老人も容赦なく殺され、街も徹底的に破壊された。
ローマ教皇インノケンティウス4世の使者プラノ・カルピニは往路途中、古都キエフが今や骸骨の散乱する廃墟であり、わずか200世帯の寒村となってしまったことを記録している。
こうして「タタールのくびき」の時代が始まる。
*モンゴル・ツングース・トルコ系などの遊牧民族をまとめてロシア人は「タタール」と呼んだ。
こうしてルーシ諸国は「くびき」を付けられてモンゴル帝国の一部となり、ルーシにいた東スラブ人はモンゴルへ税を納めることを強制され、そのことで生かされていた。
そんな隷属的な支配は、モスクワ大公国が15世紀はじめに貢納を廃止し、他の地域もそれに続いてモンゴルから自立するまで200年以上も続く。
この「タタールのくびき」の時代はロシア人にとっては恐怖と屈辱でしかなかったと、知人のロシア人は話す。
でも、あえてポジティブな面を挙げるとしたら、これによってルーシの人たちのキズナが強まったことだと言う。
*ロシアとは「ルーシ人の国」の意。
モンゴルが来るまえ、ルーシにいた東スラブ人は各地に国をつくって対立していたから、モンゴル人に攻められると、あっという間に占領されて人びとは奴隷のようになってしまった。
異民族による侵攻や過酷な支配を受けて、東スラブ人は「このままじゃいけない。我々は団結しなければ!」と考えるようになる。
だからモンゴルの支配から解放された後、互いに争い合う雰囲気は徐々になくなっていく。
そんな空気ができてきた時に、ピョートル1世という偉大な皇帝が現れる。
彼がロシア帝国を創設すると、そのカリスマとリーダーシップの下にロシア人(東スラブ人)は団結してヨーロッパの中でも強国になり、それ以降は強力なドイツ軍を撃退したりと、ロシアが異民族に支配されることは二度となかった。
バラバラ状態にあって全体的に弱小だったロシア人は、「タタールのくびき」によって弱点に気づき覚醒する。
このへんの歴史のついてはロシア人以外の視点では、モンゴル人の支配はそれほど厳しくなかったという指摘もあって見方はいろいろある。
ただ、あれは結果的に、強いロシアになるターニングポイントになったと知人のロシア人は考えていた。
アジア人に支配された経験はフランスやドイツなどのヨーロッパ諸国にはない。
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