ロシアのウラジオストク出身で、来日してからステキな女性と出会って結婚し、そのあと京都の仁和寺で修行してお坊さんになったという、ツッコミどころ満載のロシア人の僧侶が日本人のお坊さんと一緒に、ウクライナの平和を願って大阪の街を歩いた。
毎日新聞(2022/05/27)
「ウクライナは兄弟のよう」 ロシア人僧侶ら、ミナミを平和行脚
ウクライナ戦争は置いといて、ここでの注目ポイントはロシア人僧の言う「ロシアとウクライナは兄弟のような存在の国」という言葉。
ロシア人もウクライナ人も東スラブ人で元は同じ国にいた人間だから、いまは別の国に住んでいても、文化的・民族的には“兄弟のような関係”と言うことはできる。
その意味ではロシアにとってはベラルーシも“兄弟”で、赤はロシア人、青はウクライナ人、白はベラルーシ人を表すロシア国旗がそんな見方を象徴している。
「オールを漕(こ)ぐ人」を意味するルーシ族(北欧のヴァイキング)が9世紀に、スラブ人の住むノブゴロドへやってきてそこを支配して「ルーシの国」を建てて、これがロシアの由来となった。(ロシア)
そんなことでロシア最古の都市はノブゴロドだ。
18世紀のロシア帝国で、ロマノフ朝のピョートル大帝が「ロシア」を正式な国名として採用して現在にいたる。
ヨーロッパを参考に国を西洋化したピョートル大帝は、「~の国(土地)」を意味する「イア(ia)」をルーシの後につけて、ギリシャ風の「ロシア」(ルーシの国)を国名にしたという。(歴史的な国名)
世界の国名・地名:語尾の「イア(ia)」はラテン語で「~の国」
ちなみにベラルーシとはスラブ語の「ベラ(白い)」と「ルーシ(ロシア)」で「白いロシア人」といった意。
ノブゴロドを支配したルーシ族のリーダー、リューリクは南下してキエフを占領しそこも支配下に置く。
リューリクの死後、首都はノブゴロドからキエフへ移されて、周辺にあった複数の公国が従うように連合することでキエフ大公国(9~13世紀)が形成されていく。
そんなことでキエフ大公国の領土はいまのウクライナ、東ヨーロッパ、モスクワやフィンランドを含む広大なものだった。
この時代のキエフは、圧倒的なラスボス感を放っていたと思われる。
「ルーシ」はキエフ大公国の正式な国名でもあって、現在ではウクライナがルーシの後継者であるとか、いやいや、ロシアこそがルーシの正統な後継者だとかいう主張があってややこしい。
「ルーシ」とは民族、国、地域の名称だから、けっこうめんどくさい。
「圧倒的じゃないか、我が軍は!」というほどの権勢を誇っていたキエフ大公国も、12世紀になると権力争いが起こって分裂し弱体化していく。
地方では独立状態に近いルーシ諸公国があって、日本の歴史でいうなら室町幕府と戦国大名みたいな状態になる。
「キエフ大公国」という名前は一応残っていたけど、その支配体制は崩壊して、実質的にはキエフを中心とするキエフ公国という小国でしかなかった。
でも、腐ってもタイはタイ。
大公国の中心地で特別な場所だったキエフは奪い合いになり、戦いのメインステージになった結果、破壊されまくり。
そんな戦乱を嫌った多くの人がキエフを離れ、ノヴゴロドやモスクワなどへ移住していった。
そのころ東方では1206年にチンギス・カンがモンゴル高原を統一して、西方へ進軍し領土を広げていた。
そんなチンギス・カンの命を受けた将軍が遠征軍を率いて西へ西へ進んでいくと、いまのウクライナのあたりでキエフ公国をはじめとするルーシ諸公国とぶつかって、1223年のきょう5月31日に カルカ河畔の戦い が始まった。
分裂状態だったルーシ諸公国を寄せ集めた軍ではモンゴル軍には勝てず、この戦いはルーシ側の惨敗に終わる。
でも、大勝したモンゴル軍はルーシの地を支配しないで去って行く。
その後、1236年にチンギス・カンの孫にあたるバトゥ率いる大軍が到来したことで、ルーシ諸公国にとっての本当の地獄が始まった。
カルカ河畔の戦いやバトゥの西征といったモンゴル帝国の侵攻(1223年~1240年)で、容赦のない破壊・殺戮・略奪を受けたルーシの地は壊滅状態になった。
結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になったという見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある。
モンゴル帝国によるルーシ侵攻というか蹂躙によって、1240年にキエフ大公国は完全消滅した。
バトゥ軍の略奪
モンゴル軍の攻撃を受けたのは現在のウクライナのあたりで、はるか北部にあって“無傷”だったモスクワはルーシ諸国の代表となってモンゴル側とやり取りを行う。
強大なモンゴル帝国の権威を利用してモスクワは、多くの人が集まるモスクワ大公国として発展し、その後のロシア帝国や現在のロシアへとつながっていく。
だから、モンゴル軍がキエフ大公国を滅ぼして、回復不可能なほどのダメージを与えていなかったら、大国としてのモスクワ大公国もロシア帝国もなかったのではないか?という見方は当然ある。
モンゴル襲来の衝撃から、同じキエフ大公国にあったロシア・ウクライナ・ベラルーシは別々の歴史を歩むようになり、それぞれの民族のアイデンティティーが形成されるようになった。
キエフ大公国の首都のあったウクライナとしては、自分たちが「本家」なのに、モスクワが「自分たちこそキエフ大公国(ルーシ)を継ぐ者」と称して台頭してきたことには「ふ・ざ・け・ん・な」という思いがあるだろう。
さて以前、ガルージン駐日ロシア大使がテレビ番組でこんなことを言っていた。
「我々はウクライナとロシア、ベラルーシは1つの国民であると考えています。」
これはキエフ大公国の時代の話で、ロシア人とウクライナ人(とベラルーシ人)はルーツは同じでも、いまでは違う歴史をもつ別々の民族だ。
それともロシアはいまでも自分を「モスクワ大公国」と考えていて、ウクライナやベラルーシといった「ルーシ諸公国」を支配する立場にあると考えているのか。
ウクライナ人もロシア人を“兄弟”と認めることはあっても、“親”であることには全身全霊で拒否するはず。
だからそれを強要されたら、立ち上がって武器を持って戦う。
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