【できない約束】イギリス、パレスチナ問題の原因をつくる

 

たとえば、こんなコトがあったとする。

あるお金持ちが、家を失って困っていたAさんに近づいて、「私の手伝いをしてくれたら、あなたに住む場所を提供しましょう」と言った。
同時に、その金持ちは、家主にいじめられていたBさんにも、「私の手伝いをしてくれたら、あの家主を追い出してあげますよ」と持ちかけた。
AさんとBさんがこの提案に同意し、協力した後、金持ちは2人に向かって「あなたたちは今日から、ここに一緒に住んでください」と1軒の家を指したとしたら、AさんとBさんは「聞いてないよ〜」という困惑を超え、きっと「だまされた!」と怒りだす。
しかも、2人の価値観や考え方がまったく違っていたら、同じ家で一緒に住めるわけない。

100年ほど前、大英帝国がユダヤ人とパレスチナ人にそんな矛盾する約束をしたことが、いまのパレスチナ問題の原因の一つとなった。

 

小さな「ッ」があると、日本人にはとても覚えやすいのが、イギリスのスナク首相。
そんな(どんな?)彼が、いまイスラム組織ハマスと「戦争状態」にあるイスラエルを訪問し、ネタニヤフ首相と会談した。
そして、「(イスラエルには)反撃する権利がある」、「我々はあなたたちが勝利することを望んでいる」と語り、イギリスはイスラエルと共にあるという姿勢を強調する。
ここでの勝利とは、人質を取り戻してハマスをたたき、イスラエルの安全保障を強化することを指す。
ただ、スナク首相はイスラエルに対し、国際法を守り、民間人への攻撃を避けるよう注文をつけた。
この後、スナク首相は周辺のアラブ諸国を訪れ、要人と会談を行う予定だ。

日本のネットの反応を見ると、やっぱりあきれ顔や苦笑する人が目立つ。

・今度は何枚舌ですか?
・ネタニヤフが「元々お前らのせいだろ」って言うべきだろ。
・またややこしくなるからイギリスは口出すなよw
・一方的に殴られっ放しだったパレスチナは?
・イスラエルによるパレスチナへの軍事制圧は治安維持。
警視庁の機動隊と同じ

 

イギリス領パレスチナ(1920年ごろ)

 

元々お前らのせいだろ、またややこしくなる、と日本人が非難するのは、かつてイギリスが次の2つのコトをしたから。

・1915年のフセイン・マクマホン協定

第一次世界大戦が行われていたころ、パレスチナはオスマン帝国に支配されていて、そこに住んでいたアラブ人は自由を求めていた。
そこへ、オスマン帝国と戦っていたイギリスが近づいて、アラブ人にこんな提案をする。

「なあ、オレたちの戦争に協力してくれないか? オスマン帝国に反乱をおこすんだ。その代わり、戦争が終わったら、君たちの独立を支援しようじゃないか」

両者はこの内容で合意し、アラブとイギリスを代表してフサインとマクマホンが協定を結んだ。
この後、アラブ人はオスマン帝国と戦い、イギリスの勝利に貢献した。

 

・1917年のバルフォア宣言

そんな約束をした2年後、イギリスは今度はユダヤ人に対して、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設しようと提案する。
それが受け入れられると、外務大臣のバルフォアはユダヤ人の支持を表明した。(バルフォア宣言
ユダヤ人は約2000年前に国を失い、ヨーロッパで虐殺や追放などの迫害を受けていたから、自分たちの国をどうしても必要としていた。
イギリスはその代わりに、ユダヤ系財閥のロスチャイルドから資金をゲットし、さらに欧米のユダヤ人を味方につけ、各国の世論に影響を与え、戦争を有利に進めようと考えた。
実際、第一次世界大戦で、イギリスを含む連合国が勝利した大きな(おそらく最大の)要因はアメリカの参戦だ。
これには、アメリカに住むユダヤ人の働きかけが影響を与えた。

 

でも、パレスチナに2つの国家を建てることは無理ゲーと言っていい。
なのにイギリスは、アラブ人とユダヤ人にそんな矛盾した約束をしたから、「二枚舌外交」と非難されることが多い。
しかもイギリスは、フセイン・マクマホン協定とバルフォア宣言の間の1916年に、パレスチナをフランスと分け合う「サイクス・ピコ協定」を結んでいたから、「三枚舌外交」とも言われる。
もう無茶苦茶デス。

「三枚舌外交」は新聞やテレビで使っていい表現だが、ネットでは、カジュアルに「ブリカス」と言う人がよくいる。
これは「ブリテン(イギリス)」と「カス」をくっつけた造語で、イギリスを非難する時に使われる。が、レッキとした差別用語であることは理解しておく必要がある。

 

あえてイギリスを擁護するなら、事前に定められた境界線がしっかりと守られていれば、アラブ人とユダヤ人の国家の共存は可能だったから、上の3つの合意は矛盾していないという意見もある。
そうすれば、現在のパレスチナ問題もなかった。
あの当時、イギリスはウソをついたつもりはなく、本当にそれが実現できると信じていたのだと思う。
しかし、実際には、1920年代にはすでにパレスチナで双方の衝突が発生していたから、まったく現実的な案ではなかった。
イギリスができない約束をしたことで、大きな混乱を招いてしまう。

騒ぎがパレスチナに広がり、ユダヤ人とアラブ人双方にそれぞれ50人弱の死者が出た。こうしたことから、ユダヤ人側は自衛を目的として民兵組織(ハガナー)を作り始める。

イギリス委任統治領パレスチナ

1929年にイギリス領パレスチナで発生したアラブ人とユダヤ人の武力衝突(嘆きの壁事件)で、焼き打ちにされたユダヤ人の家

 

現在のイギリスは、パレスチナ問題の一因となった、あの「三枚舌外交」についてどう考えているのか?
バルフォア宣言から100年が過ぎた2017年、メイ英首相は「イスラエル国家建設のための我々の役割を誇りに思う」と述べ、ユダヤ人とアラブ人の共存については「未完成の仕事」と表現した。
そして、謝罪を求めるパレスチナに対してこう言った。

「absolutely not(絶対にしない)」

ブリ〇スと言われるゆえんである。
「翼を授けよう」ならよかったのだけど、1つの土地に2つの国家を授けることには無理があったのだ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。