はじめの一言
「日本ほど道具類が高価でまた多種多様な国民はどこにも見当たらない。道具類は、この国では、それぞれの職人によって別々に製作される。日本国民以上に諸道具に対して大きな価値を認めている国民はどこにもない。
(フィッセル 江戸時代)」
「日本絶賛語録 小学館」
今回の内容
・日本とインドネシアの最大の違い
・インドネシア人の「県人会」
・無宗教は「法律違反」
前に、友人のインドネシア人に、こんなことを聞いた。
「インドのタージマハルの入場料が、インド人は約30円で、外国人はその約38倍の1150円ってどう思う?」
そしたら彼はこう言う。
「え?38倍もあるんですか?でも、インドネシアもすごい格差社会だから、インドで外国人料金があるのは分かります。1150円ならいいじゃないですか?その金額に納得できなかったら、入らなかったらいいですし。インドや東南アジアの国で外国人料金があるのはいいですよ。でも、日本みたいな豊かな国で、外国人料金があったらおかしいですね」
そんな彼に日本の印象を聞いてみた。
ということで、今回は、インドネシアという国とインドネシア人の目から見た日本について書いていく。
・日本とインドネシアの最大の違い
以前、インドネシア人の夫と結婚して、インドネシアに住んでいる日本人と話をしたことがある。
その人は、インドネシアでの通訳の仕事をしていた。
「インドネシアって、日本となにが違いますか?」
と、ボクが聞くと、こんなことを言う。
「一言でいえば、多様性ですね。インドネシアの国のスローガンは、『多様性の中の統一』というものです。インドネシアの中には、いろんな民族・人種・宗教がありますから」
前回の記事で書いたインド人と同じ答えだ。
この「多様性の中の統一」という言葉は、インドネシアという国の特徴をよく表していて、いろいろなところでも見られる。
例えば、日本の外務省でインドネシアを紹介しているところにはこうある。
こうした多種多様な文化,言語,宗教が混在しているインドネシアの国是は,「BHINNEKA TUNGGAL IKA(多様性の中の統一)」。
まさに多様性こそがインドネシアという国の活力と魅力の源泉といえます。
「そういや、日本の国の国是(スローガン)って何だろう?」と思ってウィキペディアを見たら、「ない」とだけ書いてあった。
そうか、日本は、スローガンを必要としない国なんだ。
このインドネシア人の友人に日本の特徴を聞いたときも、前回のインド人と同じように、「同一性の高さ」をあげていた。
多様性のある国の人から見たら、日本の特徴は、やっぱり「同質性の高さ」なんだろう。
彼にとっての「同質性の高い日本」は、こんな具合。
「日本は、どこに行っても、建物や着ている服が同じです。インドネシアでは、島によって服も家も違います。言葉も宗教も習慣も島によって違います」
別のインドネシア人に「『じゃんけん』ってインドネシアの言葉で何というの?」と聞いたことがある。
彼女の答えは「『じゃんけん』も、島によって言い方が違います。いろんな言葉がありますから」というものだった。
・インドネシア人の「県人会」
浜松市にはインドネシア人の研修生がたくさん住んでいる。
そのインドネシア人の中でも、同じ出身者で集まる傾向があるらしい。
ボクの友人は、「スンダ」というところの出身で、浜松には同じスンダ出身のインドネシア人が集まる「スンダ・グループ」があるという。
もちろん、他の場所の出身のインドネシア人との交流もあるけど、スンダ人同士の付き合いは別だと言う。
「他の場所のインドネシア人だとインドネシア語でしか話ができません。スンダ人ならスンダ語で話ができるから、やっぱり違います。懐かしいし楽しいです」
ということらしい。
海外にいる日本人でも、同じ出身地の人で集まる「都道府県人会」はある。
でも、どこの県人会でも、使っている言葉は日本語で、方言というちょっとした違いがあるだけだ。
日本の場合、都道府県別によってまったく別の言語を使っていることは考えられない。
・無宗教は「法律違反」
さらにインドネシアでは、法律によって自分の宗教を決めなければいけない。
インドネシア人が持っている身分証明のカードには宗教を書くスペースがあって、そこに自分が信仰する宗教を書かなければいけない。
日本では「私は無宗教ですけど、何か?」と言ってもまったく問題はない。
けどインドネシアでは、警察に捕まる可能性かあるという。
信仰の自由はあるといっても完全なものではなく、特に無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性もある。
(ウィキペディア)
日本で「無神論は違法」ということはありえないし、何のことか分からない人がほとんどだと思う。
ほとんどの日本人は、仏教徒であるとともに神道の信者だ。
けど本人に言わせると「私には、特に宗教はありません」という無宗教だと思う。
宗教に対する考え方や信仰が同じ(似ている)ということは、常識や価値観、食生活をふくめて生活の仕方が似ていることにもなる。
友人のインドネシア人はイスラーム教徒だから、豚肉は食べられない。
でも、カリマンタン島出身のキリスト教徒のインドネシア人は何でも食べられる。
とんかつは彼女の大好物だ。
ボクがインドで会ったイスラーム教徒は「オレはイスラーム教徒だから、ヒンドゥー教の寺院には入ることができない」と言っていた。
彼は当たり前のように言っていたけど、日本人のボクはちょっと驚いた。
最近は、日本でも増えてきた「ハラル」認証のマーク。
「イスラーム教徒が食べても大丈夫ですよ~」ということを知らせている。
こういう多様性は、日本ではまず見られない。
ほぼすべての日本人は、宗教によって食べ物が決められていることはない。
仏教のお寺や神道の神社に行って、仏様や神様に手を合わせて頭を下げても、まったく問題ない。
ということで、外国人から見たら日本は、やっぱり、「同質性が高い」という国。
でも、これは、インド、インドネシア、アメリカ、シンガポールなど多様性のある国から見た日本の特徴になる。
日本と同じく、同質性の高い韓国や中国から見たら、日本の別の特徴が見えてくるんだとうね。
おまけ
インドネシアでは、「無神論者は、法律違反」というのは、正確には、「共産主義者はいけない」ということではないかと思う。
というのは、インドネシアでは、1965年にこんな大虐殺事件が起きている。
スカルノから治安秩序回復の全権委任を得たスハルトの主導のもと、クーデター首謀者とされたウントゥンや事件に関与したとして共産主義者、約50万の人々、特に40万の中国系の集団虐殺が起きた(華語教育や文化活動も同時に禁止された)。
20世紀最大の虐殺の一つとも言われ、50万人前後とも、最大推計では300万人とも言われるその数は今日でも正確には把握されていない(ウィキペディア)
友人のインドネシア人には、インドネシアでの人種問題についても話を聞いた。
今、インドネシアの首都のジャカルタの市長は、中国系の人がしている。
この人が、現地のマレー系の人たちから嫌われているという。
けれど、友人の目から見たら、その中国系のジャカルタ市長は有能で、ジャカルタのために、とても良い仕事をしているらしい。
この点では、どこかの国の都知事とは違うようだ。
市長は良い仕事をしているけれど、一部のマレー系のインドネシア人からは「でも、あいつは中国人だから」という人種的偏見をもって見られているという。
「これはインドネシアの大きな問題です」と彼はため息をついていた。
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Kokontouzai様、初めまして… ジャカルタ在住の日本人で浜松市出身、中華系インドネシア人と結婚している石川と申します。研修資料を作成していて、偶然、このブログを見つけ、インドネシアの事、浜松のインドネシア人の事が書いてあって、興味を持ちました。私もジャカルタでフリーランス通訳をしています。もしかしたら、何処かでお会いしているかもしれませんね。
初めまして。メールを送ったのですが、届いているでしょうか?