インドのヴァラナシ。
それはインドにいるヒンドゥー教徒にとって最高の聖地。
そしてインドを訪れる旅行者にはとっては観光の目玉。
JTBのホームページではヴァラナシをこう紹介している。
日本の文化や歴史、そして精神性を表象するのが富士山であるとすると、インドのそれは間違いなくガンジスです。
全長約2500kmのインド北部を流れるガンジス河はヒマラヤの氷河を源に、いくつもの支流と広大な流域面積を持つ大河、そして、ヒンドゥー教徒にとって聖なる河とされています。
ボクがJTBの採用試験に落ちたことはここだけの秘密だ。
それはいいとして、個人的にはガンジス川は富士山じゃなくて伊勢神宮だと思っている。
この地図の赤い点がヴァラナシ。
ガンジス川と富士山には共通点がある。
どっちも、「かなり汚れている」というところ。
富士山の場合、「ゴミが多すぎる!」ということで世界遺産になれなかったこともあった。
「日本人はみんな富士山が好きだし、日本の街はどこもキレイだ。なのに、なんで富士山にはゴミがたくさんあるんだ?」
アメリカ人からそんな質問をされたことがある。
日本人がインドのガンジス川について感じる疑問もこれと似ている。
「ヒンドゥー教徒はガンジス川を聖なる川と考えているのに、なんであんなに汚くするんだ?」
ガンジス川で沐浴するヒンドゥー教徒の人たち
聖地・ヴァラナシ
ガンジス川の水質汚染というのは、本当に深刻な問題。
「今すぐにでも対策を始めないといけない!」というレベル。
前回にも書いたけど、もう一回書かせてほしい。
ガンジス川がどれくらい汚れているか?
ウィキペディアの「ガンジス川」には汚染と保護という項目がある。
そこでこんな説明をしている。
ガンジス川の豊富な水は様々な用途に使われているが(「経済」を参照)、両岸には上水道や下水道が未整備の地域が多い。このため水質汚染が進んでいる。2007年には世界で最も汚染された5つの河川となり、ワーラーナシー付近での大腸菌レベルはインド政府の定める基準の100倍にまで上った。
こんな深刻な水質汚染を受けて、インドの裁判所はガンジス川とヤムナー川になんと’人と同じ地位’を認める判決を出した。
前回にそのことを書いたね。
でも、そもそも不思議なのはこれ。
聖なるガンジス川がなんで汚れているのか?
ヒンドゥー教徒が神聖な川を汚している理由が分からない。
そういうわけで、インドのヴァラナシに行ったときに何人かのインド人に質問してみた。
その時に印象に残った答えがこれ。
「神聖な川だから汚してしまうんだよ」
シヴァ神
ガンジス川が聖なる川である理由は、その水がシヴァのからだに触れたものだから。
「神聖な川なのになんで汚すのか?」と聞いたら、神聖だから汚すのだという。
どういうことだ?
矛盾している。
つじつまが合っていないだろう。
その答えを簡単に言うと、「人間がどんなにガンジス川を汚しても、ガンジス川は決して穢れないから」ということ。
ガンジス川の神聖性はシヴァ神に由来する。
最高神であるシヴァのからだに触れた水は聖水になる。
シヴァのからだをつたって流れ出たガンジス川は、それだけで最高に神聖な川になる。
ヴァラナシで、「ガンジス川の水に触れるとシヴァ神を感じることができる」と言っていたヒンドゥー教徒のインド人もいた。
だからこう考えるインド人が多く出てくるらしい。
「シヴァ神はあまりに神聖だから、人間がどう汚してもその神聖性を穢すことはできない」
つまり、ヨゴレとケガレはまったく別のもの、ということ。
人間が汚水を流そうがゴミを捨てようが、それでシヴァ神の神聖を失うことはまったくないと考えるらしい。
なんでヒンドゥー教徒は神聖な川を汚すのか?
その答えは人によって違うけど、「汚れと穢れは違うから」という考えはかなり共通してあった。
神聖で汚いガンジス川
宗教の世界と現実の世界とはまったく違う。
科学の論理を宗教の考えに当てはめてもあまり意味がない。
だから水質汚染を科学的に証明してヒンドゥー教徒に見せたとしても、それで信者が「ガンジス川が穢れている!」という認識をもつわけではない。
信者にとっては、科学的なデータより「シヴァ神のからだに触れた水は聖水だ」ということに強い説得力を感じてしまうのだろう。
客観的な認識と信仰をとおした認識は違う。
仏像を例にとる。
京都の広隆寺にはとても有名な弥勒菩薩像がある。
これは国宝の第1号で、まさに日本の宝。
でもこれを科学的に言ったら、ただの古い木材でしかない。
この弥勒菩薩像とまったく同じ材質と大きさの木材を売り出したとしても、それを欲しがる人はいるのだろうか?
木材として考えたら、もっと良いものがある。
でも、弥勒菩薩像の価値をお金で測ることは絶対にできない。
そういう話ではないのだ。
人間の信仰を市場価値で測ることはムリ。
でも信仰心をまったくもたなかったら、話は変わってくる。
犬にしてみたら、弥勒菩薩像よりも200円のサラミのほうに価値を感じるはず。
猫だったら、奈良の大仏よりサンマのほうがきっとうれしい。
「人間がどんなにガンジス川を汚しても、ガンジス川は決して穢れることがない」という理屈もそういうことだろう。
水質汚染という科学的な見方とシヴァ神への信仰とはまったく別。
別のことだから矛盾はしない。
ボクが話を聞いたインド人もそのことをなげいていた。
「水が汚いと聞いても『シヴァ神の水は穢れていない』と考えてしまう人が多いから、みんな水質汚染の問題に関心をもたないんだよ」
「ガンジス川はどんなに汚れても、穢れなかったら問題ない」といった考えがあるから、「水が汚い!汚染対策をすぐにしければ!」という問題意識がなかなか育たない。
だから、平気でゴミや汚水をガンジス川にタレ流してしまう。
でもそうしたところで、ガンジス川の神聖が穢れるとは思わない。
これはインド人の結婚式のときの祭壇。
さすがにこれはキレイにしている。
ちょっとしつこくて強引だけど、スマートフォンの画面に例えてみる。
スマホの画面に貼ってある保護フィルムがどうなろうと、本来の画面に影響がなかったらそんなことはどうでもいい。
保護フィルムがどんなに汚れようと傷つこうと、画面そのものに変化がなかったら問題はない。
見た目では汚れていても、そんなことは気にならないだろう。
ガンジス川の水質汚染とガンジス川の神聖性もそんな感じだと思う。
見た目が汚くても、ガンジス川の神聖性はまったく変わらない。
でもなかには、信仰は関係ないという人もいるという。
水質汚染対策なんて自分には関係がないし今までの生活を変えたくもない、という人もたくさんいる。
ゴミのポイ捨てをやめるのが面倒くさいとかガンジス川でからだを洗いたいとか、そんな個人的な理由でガンジス川を汚し続けている人もいる。
ヒンドゥー教最高の聖地と呼ばれるヴァラナシもこんな状態。
これも汚れと穢れの違いだろうか?
路上にどんなにゴミが散乱していても、ヴァラナシの神聖を穢すことはない!ということなのかもしれない。
「川には人と同じ地位がある。川を汚すことは川の権利を侵害することになる」とインドの裁判所が認めたことで、これからはガンジス川やヤムナー川の水質は良くなるかもしれない。
いや、良くなってほしい。
と思っていたら、その4か月後にインドの最高裁がその判決を取り消してしまった。
AFPの記事(2017年07月10日)から。
インドの最高裁は7日、ガンジス(Ganges)川とその支流であるヤムナ(Yamuna)川に人間と同じ「生きた存在」としての法的地位を認めるとした下級裁の命令を無効とした。
ガンジス川やヤムナー川の水質汚染は本当に深刻な問題だけど、ほとんどの人には問題意識がないし関心も示さない。
だから裁判に訴えて、「川にも人権がある」という裁判所のお墨付きをもらおうと考えた。
そしてそれを後ろ盾にして、汚染対策を進めようとしたのだと思う。
言ってみれば、ヒンドゥー教の信仰に対して法の力で対抗するような感じで。
でも最高裁がそれを無効にしたから、また0に戻ってしまう。
これでは、ガンジス川の女神の涙は当分とまりそうにない。
ガンジス川がどれほど汚いかは、AFPの記事を見てください。
これが聖地ヴァラナシだ!
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