今回はイランの話。
もっと正確にいうと、イスラーム教徒の犬に対する考え方についての話。
そんなのいらんわ、とは言わずに最後まで読んでほしい。
でも「イランってどんな国?」という人も多いと思うから、まずはイランについて簡単に紹介させてほしい。
イランの面積は約1650000平方キロメートルで、これは日本の約4.4倍。
人口は約8000万人だから、日本の6割ほど。
イランは犬に対して厳しい。
2014年には、「犬を飼う人間がいたら、そんなヤツはムチ打ちにしろ!」というとんでもない法律が議会に提出されたことがある。
AFPの記事から。
イスラム教は犬を不浄とみなしており、イランで犬を見かけることは少ない。だが、室内で密かに犬を飼う家庭もあり、富裕層が多く住む地域では屋外で犬を散歩させる姿もみられる。
これまでは、公共の場で犬を散歩させている飼い主は「道徳警察」が呼び止めて警告したり、場合によっては犬を「没収」したりしてきた。
「犬の散歩をしていたら、警察に犬を没収されてしまう」というのは、日本の感覚からするともう異次元。
警察がこんなことをするのは、ここに書いてあるように「イスラム教は犬を不浄」とみなしているから。
イランでは国民の98%以上がイスラーム教徒。
だからイスラーム教の影響がとても強い。
日本の最高法規は日本国憲法。
これより”上”は存在しない。
でもイランの場合、最高法規はイスラーム法(シャリーア)。
イラン憲法よりも、イスラーム教の聖典クルアーン(英語読み:コーラン)のほうが上にある。
なんでイスラーム教では、犬を「汚れた動物」とされているのか?
その理由についてはこの記事を読んでください。
イエメン人のイスラーム教徒の女性
そんなイランではここ数年、犬に対する見方が大きく変わっている。
イスラーム教では「汚れた動物」とされている犬を、ペットして飼いたがる犬好きのイラン人が増えているらしい。
朝日新聞にその記事(2017年8月31日)がある。
「不浄な生き物」として犬を忌避するイスラム教シーア派のイランで、犬をペットとして飼うことが人気になっている。宗教の伝統を重視する保守派には嫌悪する声が強いが、都市部の穏健派には「自由を求める行為の象徴」と捉えられている。
犬は不浄?それとも友達? イランでブーム、保守派反発
イスラーム教の考え方をとても大切にする保守的な人たちにとっては、ペットを飼うことが「西洋化の象徴」に見えてしまう。
これも、保守派が犬を嫌う理由になっている。
この報道を知った日本のネットユーザーはこんなコメントをしている。
イランというとあまり良いイメージ無いが、ペルシャと言うとペルシャ猫、ペルシャ絨毯と高級なイメージ。
つかペルシャ猫、かわいい。猫飼えばいいじゃん
イランってゴージャス犬であるアフガンハウンド出生の地のひとつじゃん
あんな綺麗な犬、他の地域にはいないのにさ完全に人間に合わせてくれる動物なんて犬だけだろ
イスラム教徒は何が楽しみで生きてるんだろ?
ちなみに、日本の神道にも”けがれ”という考え方がある。
でも「神道には、ある特定の動物を”けがれている”とみなす考えがある」なんて聞いたことがない。
伊勢神宮は、犬を連れての参拝は「ご遠慮ください」としている。
これは「犬はけがれた動物だから」ということではなくて、静かに参拝したい人への配慮だろう。
神社のなかで犬がフンをするのもいいはずがない。
と思ったら、ネットで調べると神道にも「犬はけがれている」という考えがあるらしい。
古くから、犬や猫などの動物は「穢れ(けがれ)」とされてきた考えがあります。
境内は神聖で清浄な場所であるとされるため、そういった場所に穢れの対象である動物を連れてくるのは場違いだろう、ということなんだと思います。
悲しいかな、こういった考えの元では犬や猫は「畜生」と捉えられているわけなんですね。
神道で犬を「けがれ」としていることは知らなかった。
朝日新聞の記事では、イランでの犬に対する見方の違い書いている。
「犬はけがれている」と考える人がいれば、「犬はかわいい」と思う人もいる。
「犬をペットにする」ということから離れたら、いつの時代でもどこの国でもこんな対立はおこるもんだ。
「昔からの価値観を大事にする人 VS 新しい価値観で生きようとする人」
アメリカを見れば、北部の自由な考え方をする人たちに、南部の保守的な人たちは反対する。
日本でも男同士・女同士という同性どうしでの結婚には、保守的な人が反対している。
神道には女人禁制の考え方があって、それに反対する人もいる。
神道の女人禁制についていえば、こんなことがある。
大阪で女性の知事が相撲の土俵にあがろうとしたら、「土俵は女人禁制だから」とそれを断られた。
世界遺産になった「沖ノ島(おきのしま)」も女人禁制で、女性は一切、この島に立ち入ることができない。
古い価値観が間違っていて、新しい価値観が正しいわけでもない。
伝統的な価値観が正しくて、それに反する考え方が間違っているわけでもない。
富士山は江戸時代、女人禁制で女性は登ることは許されなかった。
でも明治の文明開化で”西洋化”して、女性が登ることできるようになる。
平成の今では、富士山に女性が登るのは常識だ。
「犬は不浄な動物か?それとも人間の友達(ペット)か?」というのはイランの問題。
だけど、同じような新旧の価値観の対立なら、日本でもよく起きている。
いつの時代になっても、この対立は起き続ける。
でも対立をおそれていたら、新しいものは生まれてこないし社会も変わらない。
イランで「犬をペットにするかどうか?」というのは、ただの個人の趣味の問題ではなくて、イスラーム教に対する信仰の違いをあらわすものだろう。
この違いは、やがて大きな変化になるような気がする。
沖縄タイムスにおもしろい記事があった。
縄文時代の日本人(縄文人)は、犬を家族の一員と考えていたかもしれない。
県教育委員会の担当者は「土器や石器が見つかった近くで、複数の骨がバラバラにならずそのまま残っていれば、人の手で埋葬された可能性が高い」と指摘する。当時から犬を家族の一員として迎え入れていた暮らしぶりを伝える発見ではないかと期待されている。
縄文時代も犬は「家族」? 沖縄で全身骨格2体発見、人が埋葬の可能性大
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