インドで会った長期旅行のおっさんに「ガンディーの『非暴力・不服従運動』って、ポル・ポトやヒトラーにも通じると思うの?」と聞かれたけど、「ぐぬぬ」と答えられなかった。
そこでそのことを考えてみたいと思う。
ガンディーの「サティヤグラハ(非暴力・不服従運動)」については、以前の記事で書いた。
だから今回は以下について、順に書いていきたい。
・ナチスの支配化にあったユダヤ人
・ポルポト政権下にあったカンボジア人
・それぞれの状況下で、ガンディーの「非暴力・不服従運動」は通用したのか?
ナチスによるユダヤ人の虐殺(ホロコースト)のことは、欧米人なら常識として知っていることだから、知っておいて損はないはず。
まずはナチスの支配化にあったユダヤ人について、「上から下へ」見てみよう。
ナチスとは、「国民社会主義ドイツ労働者党」のこと。
英語で外国人と話すときは、「ナチス」ではなくて「ナツィ」と発音した方が通じると思う。
イギリス人は「ナツィ」と言っていた。
このナチスが政権を取るまで、ドイツは「ヴァイマル共和国」と呼ばれていた。
ちなみに、伊藤博文が大日本国憲法をつくるときに参考にしたのがこの国の「ヴァイマル憲法」だ。
当時この憲法は、世界で「最も民主的」とされていた。
しかし1933年にナチス政権が成立したことで、ヴァイマル共和国が崩壊してしまう。
このナチス政権で総統(そうとう)としてトップにいたのが、「アドルフ・ヒトラー」という人物。
大統領を兼ね、総統と称して独裁的権力を握った。反ユダヤ政策を掲げ強引に侵略政策をおしすすめ、第二次世界大戦を引き起こしたが、戦争に敗れ、45年に自殺した
「世界史用語集 (山川出版)」
「ヒトラー(ウィキペディアより)」
この人物の名前は「アドルフ・ヒトラー」といって、ヒトラーとは「製塩所の監督」、アドルフは「高貴な狼」を意味するという。
この悪魔のせいで、今のドイツでは自分の子に「アドルフ」という名前をつける親はいないという。
このヒトラーが率いるナチスがしたことが、「反ユダヤ政策」にもとづくユダヤ人排斥で、この内容があまりにひどい。
ユダヤ人を二級市民として公民権を奪い、ドイツ人との通婚を禁止した。38年以降、迫害をさらに強化し、アウシュヴィッツなどユダヤ人絶滅を目的とする収容所を設置した
「世界史用語集 (山川出版)」
個人的な話になるけど、ボクはナチスがユダヤ人を絶滅させようとしたことは知ってた。
でも、何で絶滅しようとしたのか?
絶滅をする目的までは知らなかった。
ユダヤ人絶滅という「ユダヤ人問題の最終的解決」を決定したのはヒトラーだけど、これに深く関わっていた人物に「アイヒマン」という人がいる。
彼はこう言っている。
ユダヤ人は、ドイツ国民の永遠の敵であり、殲滅(せんめつ)し尽くさねばならない。
われわれに手のとどくかぎりのユダヤ人はすべて、現在のこの戦争中に、一人の例外もなしに抹殺されねばならない。
今、われわれが、ユダヤ民族の生物学的基礎を破壊するのに成功しなければ、いつかユダヤ人がわがドイツ国民を抹殺するであろう「アウシュヴィッツ収容所 (講談社学術文庫)」
この「ユダヤ人問題の解決」のために、ポーランドにあるアウシュヴィッツという都市に強制収容所が建てられることになった。
1940年にナチスの強制収容所が建てられた。ユダヤ人絶滅政策の中心となり、150万人以上が虐殺されたと言われている。79年、『負の世界遺産』に認定された
「世界史用語集 (山川出版)」
アウシュビッツ強制収容所(ウィキペディアから)
そしてナチスの支配下にあったヨーロパの都市では、ユダヤ人を見つけては強制収容所に送って、そこですぐに殺すか死ぬまで働かせた。
世界にいくつかある負の世界遺産の中でも、ここは別格という気がする。
以下の話は1940年の前後に、ポーランドに住んでいたユダヤ人女性のもの。
ユダヤ人には一番きつくて一番汚い仕事が与えられました。自転車も取り上げられ、真冬でも何キロも歩いて仕事に出かけました。ユダヤ人は服を手に入れるための配給券をもらえなかったので、作業着も足にあった靴もありませんでした。
公園や歩道に入ることも禁じられ、公園のベンチには白い文字で、『ユダヤ人は使用禁止』と書かれてありましたし、店には『ユダヤ人には肉を売りません』とか、『ユダヤ人のための品物はありません』などと大きく張り紙がされました
「アウシュヴィッツの地獄に生きて (朝日選書) ジュディス・スティンバーグ ニューマン」
そして、こうも述べている。
映画館や劇場への出入りも禁じられました。言い換えるなら、墓地だけが唯一くつろげる休息の場だったのです
(同書)
このとき、ゲシュタポというナチスの秘密警察による取り調べが4週間ごとにあったという。
もしそこで自分の苗字を言い忘れると、それだけでポーランドの絶滅収容所に送られて殺されてしまったという。
ユダヤ教の聖地「エルサレム」
ドイツでは、1938年に「水晶の夜」と呼ばれる事件がおきている。
これは、パリでユダヤ人がドイツ人を射殺したことへの報復としておきた。
ドイツ全土にわたってユダヤ人商店が破壊され、少なくても窓ガラスが打ちわられ、ユダヤ教会には火がつけられ、消火作業を妨害された。
「国民の怒りにたいして自分を守るため」、さらに商業、興行等、産業活動に従事していた全ユダヤ人が逮捕され、要保護ユダヤ人として強制収容所に送られた。
「アウシュヴィッツ収容所 (講談社学術文庫)」
この襲撃のとき、ユダヤ人の商店の窓ガラスがたたき割られてその破片が路上に散乱した。
地面を覆(おお)うそれらのガラス片が月の光を浴びてキラキラと輝いていたことから、この日の夜は「水晶の夜」と呼ばれるようになった。
この時代、オランダでもユダヤ人を見つけては収容所に送るという「ユダヤ人狩り」がおこなわれていた。
そんななか首都のアムステルダムでは、13歳になったばかりのユダヤ人の少女が父親から誕生日プレゼントとしてノートをもらっていた。
そしてその子は、そのノートに日記を書くことにした。
その少女の名前は「アンネ・フランク」という。
続きは次回に。
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