はじめの一言
*伊勢神宮の「式年遷宮」について
「この事実一つの中にも、何という崇高な、まったく独自な考え方が現れていることであろう!(ブルーノ・タウト 昭和)」
「ニッポン 講談社学術文庫」
・遣唐使について
まずは日本がもっとも強い影響を受けた国、中国の「唐」について確認しておこう。
唐は隋を滅ぼした李淵(りえん)が618年ぬ建てた王朝で、907年に朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされるまで続いた。
当時は世界的にも先進的な文明や文化を持っていて、古代の日本は唐からいろいろなことを学んだ。
唐の都「長安」をモデルに京都をつくり、「唐令」を参考に大宝律令を制定して日本を律令国家にする。
そんなふうに日本が発展したのも、唐に渡っていろいろなことを学び、日本に持ち帰った遣唐使たちのおかげだ。
・済州島は、人喰い島だ!
奈良や平安時代、日本の造船技術や航海技術はまだまだ未発達で、航海での事故がよくおきていたから、日本から中国への航海はまさに命がけ。
遣唐使たちには、暴風雨に襲われて船が沈没したり、航海路から外れてどこかの島や未開の地に漂着してしまったりするという恐怖が常にあったはずだ。
ある遣唐使船は、唐からの帰りに「耽羅(タンラ)」という島に漂着した。
この「耽羅」が今の韓国の済州島になる。
*耽羅は1105年に、「済州(海の向こう側の大きな郡)」という意味で「済州島」になった。
このとき遣唐使たちは、その島の人たちに捕まってしまう。
平安時代にできた「今昔物語」にそのときの話があるという。
其ノ島ノ人ハ、人ノ形チニテハ有レドモ、人ヲ食ト為る所也
「遣唐使の光芒 (角川選書) 森 公章」
つまり済州島には「人の形をした者がいるけれど、人間を食べる習慣がある」らしい。
耽羅(済州島)で本当にそんな習慣があったかは分からないが、当時の日本人はそんなオソロシイことを信じていたらしい。
それで、日本人の間で「耽羅=恐怖の人喰い島」というイメージが定着したという。
この時代の済州島はどんな島だったのか?
そう思って韓国の歴史教科書(中学校)を見たけれども、この時代の済州島の様子は書いてない。
でも韓国に関心があったら、次のことは覚えておいても損はない。
韓国の教科書で済州島について取り上げられていたのは、「三別抄(さんべつしょう)」と「済州島四・三事件」のこと。
13世紀、高麗にモンゴル軍が攻めてきた。
このとき、モンゴル軍に抵抗して戦い続けたのが三別抄とよばれる人たちで、今の韓国では英雄となっている。
その一部は再び済州島に根拠地を移して闘争を続けたが、結局鎮圧された。しかしこのような三別抄の対モンゴル闘争は高麗人の自主的精神を示したものであった。
(韓国の中学校歴史教科書 明石書店)
もうひとつは「済州島四・三事件」だ。
これはとても重大な事件であるにもかかわらず、韓国の教科書では「主要用語」としてこの事件名が書いてあるだけで、事件の内容についてのくわしい説明がない。
これは韓国人にとって、目をそらしたくなるような闇歴史だからだろう。
「事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である」とウィキペディアに書いてある。
韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた
島民の20%が殺されるというのはあまりに異常だ。
日本の場合、太平洋戦争での犠牲者は人口の4%ほどだからその5倍ぐらいになる。
しかも韓国人が同じ韓国人を殺してしまったから、「事件を語ることがタブー視されてきた」ということになってしまう。
済州島四・三事件がここまで大きくなってしまった背景には、本土にいた韓国人が済州島の人びとを蔑視・差別してきたことがある。
このときの済州島の人たちにしてみたら、「鬼」とは本土からきた韓国人たちのことだっただろう。
済州島の名誉のためにも、「済州観光サイト」からこの島の知事が日本人に当てたメッセージを紹介をしたい。
済州島は、島全体がまるで風景画のように美しい韓国最高のリゾートアイランドです。国際的なリゾートでもあり、癒しとリフレッシュを望むすべ ての旅行者が夢見る「理想郷」なのです。
かつての「恐怖の人喰い島」も「虐殺の島」も、今では「夢見る理想郷」になっているらしい。
友人の韓国人が修学旅行で行ったのがこの島で、たしかに良いところだったという。
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韓国の人ごめんね、日本人は「日本は新羅より上」と考えてたよ。
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