幕末にやってきたペリーは、日本人を見てこう感じた。
「外国が発展させた成果を学ぼうとする意欲が強く、学んだものをすぐに自分なりに使いこなすことがある。」
ペリーは、日本人には高い学習能力があることを見抜いていた。
さて、前回の記事で、日本の遣唐使の中でもっとも優秀な人物と言っていい空海について書いた。空海が乗っていた遣唐使船は、中国へ向かっている途中で漂流したが、運良く中国の福州に着くことができた。
平群広成(へぐりひろなり)はそうではなく、彼は「遣唐使船ガチャ」で外れを引いた。
734年、平群広成ら遣唐使を乗せた船が、唐から日本に帰るために中国の港を出航した。
しかし、すぐに暴風にあって、四艘の船は散り散りになってしまった。このうち、大使が乗っていた船は運よく種子島に着くことができたが、平群が乗っていた船はとんでもないところへ流されてしまった。
一方、判官の平群広成たち百十五人が乗っていた船の場合は、風に流されて遠く東南アジア南方(ベトナム南方)の崑崙国に漂着したのであった。
そこで地元の兵に捕えられ、殺されたり逃亡したり九十余人が疫病で死ぬなどして、生き残ったのは平群広成らわずか四人だけとなってしまい、崑崙王のもとに留め置かれたのである「律令国家と天平文化 (吉川弘文館) 佐藤信」
平群広成の船は上海のあたりから出航し、南へ南へと流されてベトナムにたどりついた。
『続日本紀』で記されている崑崙(こんろん)国とは「チャンパ王国」を指す。
ちなみに、首がビヨ〜ンと伸びる妖怪「ろくろ首」はチャンパの言い伝えにある化物で、中国人が記録し、江戸時代に日本へ伝わったという説がある。

「ベトナム」という文字が読めると思う。
チャンパに流れ着いた後、平群広成(へぐりひろなり)は唐へ行く船に潜りこんで、唐へ行くことに成功した。そして、中国から渤海(ぼっかい)という国を通り、何とか日本に戻ってくることができた。
平群広成という人はとんでもない幸運の持ち主だった。
渤海(今の北朝鮮のあたり)から日本に帰るとき、2艘の船で出発している。無事に日本に着いたのは平群が乗っていた船で、もう1つの船は沈んで乗客全員が海の藻屑となった。
中国を出てから奈良の平城京に戻ってくるまでの5年の間、平群広成は想像を超えた苦難を体験している。
しかし、奈良や平安時代、唐へむかう航海の途中で東シナ海に沈んでしまった遣唐使船はたくさんある。遣唐使に選ばれた日本人は本当に限られたエリートだけで、そうした多くの才能と将来が海に消えていった。そうした人たちは唐で学んで、日本を発展させることもできず、名前を残すこともできなかった。
おまけ
ベトナムの首都ハノイの様子。
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