はじめの一言
「他国が発展させてきた成果を学ぼうとする意欲が盛んで、学んだものをすぐ自分なりに使いこなすことがある。(ペリー 幕末)」
「日本賛辞の至言33撰 ごま書房」
・遣唐使のありえない苦労
前の記事で、空海のことを書いた。
日本の遣唐使になかでも、もっとも優秀な人物のひとりですね。
空海をのせた遣唐使船は、中国にむかう途中で、漂流(ひょうりゅう)してしまう。
でも、その船が中国の福州についたことは運がよかった。
本当に悲惨なのは平群広成(へぐりひろなり)という遣唐使だ。
734年に、平群広成(へぐりひろなり)ら遣唐使をのせた船が、唐から日本に帰るために中国の港を出航した。
でも、すぐに災難にあってしまう。
長江の河口部を出発した遣唐使四船は、たちまち暴風にあって散り散りになってしまった
(律令国家と天平文化 佐藤信)
この4船のうち、大使が乗っていた船は運よく種子島に着くことができた。
でも、平群広成(へぐりひろなり)が乗っていた船は大変だ。
一方、判官の平群広成たち百十五人が乗っていた船の場合は、風に流されて遠く東南アジア南方(ベトナム南方)の崑崙国に漂着したのであった。
そこで地元の兵に捕えられ、殺されたり逃亡したり九十余人が疫病で死ぬなどして、生き残ったのは平群広成らわずか四人だけとなってしまい、崑崙王のもとに留め置かれたのである
(律令国家と天平文化 佐藤信)
平群広成(へぐりひろなり)たちの船が、どれだけ流されてしまったのかを確認しよう。
上海のあたりから出航して、南へ南へ流されてベトナムにたどりついた。
崑崙(こんろん)国とは、「チャンパ」のこと。
『続日本紀』に見える遣唐使判官、平群広成が8世紀に漂流した「崑崙国」は、チャンパ王国と考証されている。
(ウィキペディア)
ちなみに、首がびよ~んとのびる「ろくろ首」の話は、このチャンパからきたらしい。
中国人が記録したチャンパの伝承で、飛頭蛮という首が伸びて頭を飛ばす民族に関するものがある。これは江戸時代の日本に伝わりろくろ首の話になったと言われている。全く同じ伝説がカンボジアにも存在する。
(ウィキペディア)
「ベトナム」という文字が読めると思う。
ベトナムのチャンパに流れ着いたあと、平群広成(へぐりひろなり)は唐へ行く船に潜りこんで、唐にわたっている。
そして、唐から渤海(ぼっかい)という国をとおって何とか日本に戻ってくることができた。
考えてみたら、平群広成という人はとんでもない幸運の持ち主だった。
渤海(今の北朝鮮のあたり)から日本に帰るとき、2船の船で出発している。
このとき、平群広成が乗っていた船は無事に日本につくことができた。
でも、もう1つの船は沈んでしまい、乗客全員が海の藻屑(もくず)となった。
中国を出てから奈良の平城京に戻ってくるまでの5年の間、平群広成は想像を超えた苦難を体験している。
この経験は、映画化されてもおかしくないと思う。
でも、平群広成(へぐりひろなり)の話が現在にまで伝わっているということは、彼が生きて日本に帰ってきたことを意味している。
奈良や平安時代、唐へむかう航海の途中で東シナ海に沈んでしまった遣唐使船はたくさんある。
遣唐使に選ばれた日本人というのは、本当に限られたエリートだけ。
そうした多くの才能と将来が、海の底に消えていった。
本人はもちろん、その親や家族のことを考えるといたたまれなくなる。
そうした日本人たちの声は、残されていない。
今の日本では、記録からも人びとの記憶からも消えてしまっている。
遣唐使が唐にわたっていろいろなことを学び、日本にもち返って日本の発展に貢献していた。
このことは小学校の歴史教科書に書いてある。
このかげには、多くの日本人の犠牲があったことは、覚えていてもいいと思う。
過去の日本人の命がけの活動があって、今の日本があるのだから。
唐招提寺(ウィキペディアから)
こんな航海の苦労を知ると中国人の鑑真が、目が見えなくなってもよく日本に来てくれたなと思う。
鑑真 688?~763
唐僧。日本への渡来を決意し、失敗を重ね盲目になりながら6度目の753年に入京して戒律を伝える。
東大寺に初めて戒壇を設け、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇らに授戒。のちに唐招提寺を開く。(日本史用語集 山川出版)
でも、せっかく鑑真が伝えてくれた戒律を「なし」にしてしまったのが、平安時代の最澄なんだけどね。
おまけ
ベトナムの首都ハノイの様子。
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