前回、韓国の文大統領が「できない約束」をしたことで、下の人間が辛い思いをしている、ということを書いた。
この記事を書いているときに、頭に浮かんだ人物がいる。
それは「牟田口廉也(むたぐち れんや)」という人。
「上の人間ができない約束をしたことで、下の人間が被害を受ける」ということは、どこの会社でもある。
でも牟田口の場合は、できない作戦を実行させたことで、日本の歴史に残る大失敗をして多くの犠牲者を出した。
今回の記事は、インパール作戦やこの人物を知らない人にぜひ読んでほしい。
ヤフーで「牟田口廉也」を検索するとこんな画面が出てくる。
「インパール作戦の悲劇!牟田口廉也の補給軽視で飢餓地獄!」という文が分かりやすく説明している。
牟田口廉也(1888年 – 1966年)は日本軍の中将で、戦争中のインパール作戦で部隊を指揮した。
インパール作戦は「第2次世界大戦中、もっとも過酷な戦いの一つ」と同時に「もっとも無謀な作戦」とも言われている。
牟田口廉也はそのインパール作戦の最高責任者と呼んでいい。
下の地図でいうと、北海道のあたりにインパールがある。
インパール作戦とは、1944年にミャンマーの東北部でおこなわれた日本軍とイギリス軍の戦いのこと。
これはもともと実現不可能な計画で、日本軍にとんでもない被害を出して終わる。
現代では、無謀な作戦や命令を与えられると、「インパール作戦かよ‥」とつぶやく人もいる。
インパール作戦の戦場
インパール作戦で日本軍は、10万人のうち3万人が死亡したといわれる。
その様子をイギリス軍の兵士はこう書いている。
ボロボロの軍服を着た白骨に、別の白骨がもたれかかり、その上にまた別の死体がもたれかかっている。
三つ目、四つ目の死体になると、死んで間もないためにまだ内臓が残っており、ウジがわいていた。
「責任なき戦場 インパール (角川文庫)」
また別のイギリス軍兵士は、日本軍の野戦病院でこんな光景を目にした。
その死体のかたわらには、兵士の妻や子ども、恋人の写真、富士山や桜の花、梅の花の絵葉書、そして日記帳などが落ちていた。今際(いまわ)のきわに、思い断ち難く眺めていたと思われた。胸が締めつけられるような光景だった
(同書)
こんな悲劇を生んでしまった原因に、牟田口廉也が食料や軍事物資の補給を軽視したことがある。
それにしても、今の時代に生まれてきて運が良かったと思う。
同じ日本で生まれても、時代が違うだけでまったく別の人生になってしまう。
もともとインパール作戦に対しては、「それはムリだろう」という否定的な意見が多くあった。
だけど牟田口(むたぐち )が強く主張したことで、作戦は決行されてしまう。
「食料はどうするんだ?」という声に、牟田口は「ジンギスカン作戦」で応えた。
兵士がビルマに行ったら、そこで牛を調達して荷物を運ばせる。
荷物を運ばせた後(またはその最中)に、その牛を食べればいい。
牟田口はこんな「ジンギスカン作戦」を考え出した。
でもこれは机上の空論。
実際にはムリだった。
ビルマの牛はジャングルでの長時間歩行にも、荷物運びにも適していなかった。
それに、牛に与えるエサすら十分に用意できなかった。
このため、ジンギスカン作戦はまったく機能しない。
前線の兵士には食べるものが何もない。
それで「インパール作戦の悲劇!牟田口廉也の補給軽視で飢餓地獄!」という状態を生んだ。
戦後、牟田口はインパール作戦での責任を感じて反省の言葉を述べていたが、「反省タイム」はすぐに終了する。
代わりに、「あれは自分のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と主張するようになった。
犠牲になった兵士たちへの謝罪の言葉はないまま、牟田口はこの世を去った。
無謀なジンギスカン作戦を提案した本人は、戦後「ジンギスカンハウス」という中華料理店をオープンした。
‥という情報があるが、どうやらこれは事実ではないらしい。
ただ、牟田口が「そういうことをしてもおかしくない」と、周囲から思われるような性格をしていたことは間違いない。
牟田口廉也については一切弁護する気はないけど、「子孫」や「孫」は関係ない。
検索するのはやめたほうがいい。
どっちにしても航空機全盛になってたからあんな山岳地帯を徒歩でしかも武器(大したものではない)を担いで攻撃しようなんて無茶苦茶だった。そこにあの牟田口の手柄ほしさと人名軽視が絡んで最悪の作戦になってしまった。兵士達の苦しみを想像するとつらい。
フィリピンでもそうでしたけど、戦争末期の日本軍は食糧補給の見通しのないまま兵士だけを送りこんで、餓死地獄を現出させてしまいした。
何のために死んでいったのか分からない日本兵もいて、想像すると辛いですね。
ジンギスカンハウスはデマだそうです
ありがとうございます!
たしかに根拠がないようですね。
訂正しました。