はじめの一言
*明治天皇について
「これまでに何度も強調してきましたが、大帝たる最大の理由は絶大な権力を持っていながら行使しようとしなかったことです。(平成 ドナルド・キーン)」
「明治天皇を語る ドナルド・キーン」
20歳のころの明治天皇
(「明治天皇を語る ドナルド・キーン」からの画像)
今回の内容
・明治天皇のお金のつかい方
・徳川慶喜や勝海舟も
・もし、西太后が・・・
・明治天皇のお金のつかい方
「中国の不幸は、国が大変なときに、西太后があらわれてしまったことです」
前回、中国人のガイドがそう言ったことを紹介した。
西太后が国を私物化して、頤和園(いわえん:庭園)や60歳の誕生パーティーのために、清のお金を使い放題というほどにつかってしまった。
それが、日清戦争で日本に負けた原因にもなるくらい。
そんなガイドの言葉をかりるなら、幕末の日本はこういうことができる。
「日本の幸せは、国が大変なときに、明治天皇があらわれたことです」
ボクが知っている限りでは、西太后とは逆で明治天皇には、「日本を私物化した」という要素がまったくみられない。
まず、明治天皇の生活はほんとうに質素。
アメリカの大統領だったグラントが明治天皇に会った感想を、こんなふうに語っている。
グラントは初めて天皇と会った際、天皇が前に進み出て握手をしたことに感動しました。日本の風景の美しさにうたれ、天皇の生活が簡素でつつましいことに好意をもち、費用がかさむからと新皇居建設に反対する天皇の姿勢に感銘を受けます。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
このとき明治天皇が住んでいたところは、「仮のすみか」だった。
というのは、明治6年に女中のミスで皇居が焼けてしまったから。
そこで、「新しい皇居をつくるまでは、とりあえずはここにいてください」ということで住んでいたところ。
でも、明治天皇は新しい皇居をつくるのにお金がかかることを気にされて、「新しい皇居はつくらなくていい。ここでじゅうぶんだ」というようなことを言われたらしい。
そして、明治天皇はこんな中で住んでいたという。
*蝋燭は「ろうそく」
彼は倹約ぶりのため、蝋燭で煤け黒ずんだ宮殿のカーテンや障子もそのままでした。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
京都御所
また、住んでいる場所だけではなくて、身につけているものも質素なものだった。
明治天皇は、節約をすべきだといつも言っていました。接ぎを当てた軍服を着ていたこともあります。穂先がちびた筆を使い、小さくなった墨を使い続ける。靴の裏に穴ができた場合はそれを修理に出しました。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
もう、ここまで読んだだけで、60歳の誕生日パーティーのために国のお金を湯水のように使っていた西太后とは、まったくちがうことがわかる。
中国の王宮(紫禁城)
でも、明治天皇は「ケチ」ではなくて、お金をつかうところではつかっていた。
たとえば、青森の小学校にいったときはこんな感じだ。
小学校を去る際には、ウェブスター中辞典を買う代金として生徒一人一人に金五円を与えた
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
明治天皇が京都で即位してから、1カ月後に東京に行くことになる。
いわゆる「東京行幸(ぎょうこう)」とよばれるもの。
その間にはこのようなことをされていた。
道中、明治天皇は老人や病人、生活に困っている人々に施しを与えたりしたため費用は莫大になりました。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
そして天皇が到着した東京は、まさにお祭り騒ぎ。
天皇は今回の行幸の祝いとして、東京の民衆に三千樽近い酒をふるまう。さらにするめや錫製の徳利など、お金にすると一万五千両。東京市民は二日間にわたって家業を休み、東京到着をお祝いします。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
質素倹約をこころがけていた明治天皇だけど、なぜか、フランスの香水が好きで、3日で1瓶を使っていたという。
さらにダイヤモンドもお好きだったらしい。
明治天皇が「衝動買い」をすることがあったようで、天皇の周りの人間がダイヤモンドを売っている店には天皇を近づかせなかった。
侍従たちは困ってダイヤモンドを売るような店に明治天皇がなるべく近寄らないように配慮していました。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
明治天皇とフランスの香水とダイヤモンドというのも、意外な組み合わせだ。
でも自分を偶像化する気はまったくなく、「ムダ」なことにはお金をつかわせない。
明治天皇は亡くなるまで、一度も銅像を作らませんでした。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
現在の世界には、偉大な指導者の巨大な像をつくって民衆が上に苦しんでいる国がある。
どの時代に、どんな指導者があらわれるかは、本当に運しだい。
どうだろう?
明治天皇のお金のつかい方をとっても、「国の私物化」というものがまったくみられない。
京都御所の庭。
ここで明治天皇が子どものころに遊んでいたらしい。
・徳川慶喜や勝海舟も
「日本という国を私物化しない」
というのは、明治天皇だけにあった美徳ではない。
幕末・明治の多くの日本人がそれをもっていた。
「最後の将軍」の徳川慶喜もそう。
なんといっても、大政奉還をしたことがすごい!
中学校で習ったよね?
慶喜が、政治の権利を「お返しします」と、朝廷へかえしたこと。
源頼朝が鎌倉幕府をひらいてから、約650年ぶりに政権が天皇にもどってきた画期的なできごと。
それをこの時代の日本にいたアメリカ人は、こういっている。
「政治的にも社会的にも、日本人は西洋世界を手本にし、その結果による王政復古は、今世紀最大の驚異的政治問題を提示しました。
古い秩序の突然の放棄、そして近代的秩序の出で立ちで武装する国民皆兵が、直面する危機解決の最も現実的永続的手段としてただちに導入された事は、少なくても欧州の間ではたいへんな驚きでした
(シドモア日本紀行 講談社学術文庫)」
「古い秩序の突然の放棄」というのが、慶喜による大政奉還のこと。
こんなことは「少なくても欧州の間ではたいへんな驚きでした」というのは当然で、まず考えられない。
慶喜が「政治の権利は、自分のものではない」と思ったからできたことだろう。
まあ、そういう気持ちが少しはあったと思うけどね。
でも「日本を私物化する」というほどのものない。
二条城
「最後の将軍、徳川慶喜が勝海舟と差し向かいで会談し、大政奉還を行ったところでもあります。京都観光街めぐり 」
さらにもう一人、勝海舟もいる。
勝海舟といえば、なんといっても「大政奉還」と「江戸城無血開城」だね。
勝は「氷川清話」こういっている。
おれが政権を奉還して、江戸城を引き払うように主張したのは、いわゆる国家主義から割り出したものさ。三百年来の根底があるからといったところで、時勢が許さなかったらどうなるものか。
かつまた都府(首都)というものは、天下の共有物であって、けっして一個人の私有物ではない。
江戸城引き払いんことについては、おれにこの論拠があるものだから、だれがなんといったって少しもかまわなかったさ
・もし、西太后が・・・
「歴史のイフ」を考えることは、脳トレになる。
もし、清朝の末期に西太后がこう考えていたら?
・「皇帝を中心とする政治を続けたい」と思っても、時勢が許さなかったらどうなるものか。
・北京(中国)というものは、天下の共有物であって、けっして一個人の私有物ではない。
こんな意識を西太后がもっていて、変法をつぶさなかったら、今の中国はまったく別の国になっていたはず。
日本との関係もどうなっていたかなあ?
こちらの記事もいかがですか?
コメントを残す