いまイスラエルで、とんでもないことが起きている。
アメリカが大使館をエルサレムに移転した。
これにパレスチナ側が激怒。
パレスチナ人の抗議デモが拡大して、イスラエル軍と衝突する。
これによって2日間で60人以上が死亡した。
でも、パレスチナ側は抗議デモを止めるつもりはない。
犠牲者はこれからさらに増えそうだ。
国連は緊急の安全保障理事会を開いてこの問題について話し合ったけれど、解決のめどはまったく立っていない。
この大騒動のきっかけは、アメリカのトランプ大統領が去年、エルサレムをイスラエルの首都と認めたこと。
日本をふくめた国際社会は、イスラエルの首都はテルアビブだと考えている。
でも、イスラエルはエルサレムを首都と主張していて、アメリカもそれに同意した。
くわしくはAFPの記事(2017年12月7日)をどうぞ。
トランプ氏はホワイトハウスで行った演説で、「私は、エルサレムをイスラエルの首都として正式に認定する時が来たと確信した」と発表。さらに、在イスラエル米大使館をテルアビブからエルサレムに移転する手続きの開始も表明した。
AFPの記事はこの決定を「歴史的」と伝えている。
でも中東から遠く離れた日本では、「何が何だか」という人も多い。
ネットではこんなコメントがあった。
・何がヤバイの?
・何が問題なのか、さっぱりわからん。ゆとりにも分かるように誰か教えて。
・どういうことなのかわかりやすいようにドラクエにたとえて教えてくれ
・誰かドラゴンボールに例えてくれ
ということで、今回はそんな声に応えようと思う。
パレスチナ問題の原因を、ドラクエやドラゴンボールに例えるのはムリだけど、「ゆとりにも」分かるように説明してみたい。
まずは、イスラエルの位置を確認しよう。
イスラエルはパレスチナの地とほぼ重なる。
イスラエルの大きさは四国と同じぐらいだ。
イスラエルが建国されるまで、パレスチナには、国を持たないアラブとユダヤの2つの民族が住んでいて、どちらも自分たちの国を必要としていた。
*ただし、ユダヤ人は少数。
第一次世界大戦でオスマン帝国と戦っていたイギリスは、「オスマン帝国と戦ってくれたら、アラブ人の独立国を約束しましょう」と言う。
これが1915年の「フセイン=マクマホン協定」。
でも、その2年後、イギリスは今度はユダヤ人に「戦争に協力してくれたら、国家の建設を支援します」と言う。
これが1917年の「バルフォア宣言」だ。
しかし、この2つの約束は矛盾している。
イギリスは1つの土地に、2つの国家をつくることを約束したように見えることから、今では「二枚舌外交」と非難されている。
でも、この当時、イギリスはそれができると本気で思っていた。
1920年代、イギリス統治下のパレスチナでは、アラブ民族とユダヤ民族は仲良く生活していた。
イギリスは「パレスチナの地に、それぞれの国家をつくることは可能だ」と考えていた。
植民地大臣をしていたチャーチルはこう言っている。
ユダヤ民族とアラブ民族は共存できるか。
大英帝国はこの問題を、誰をも傷つけることなく公平に取り扱うことを約束する。
世界に散っているユダヤ人が民族的な郷土を持ちたいと願うのは、至極当然である。だがそれによってアラブ人が苦しめられたり、追いたてられたりすることがあってはならない。
アラブ人は何も恐れなくてもよい。大英帝国がユダヤ人の入植をコントロールしていくからだ。
ユダヤ教の聖書にもあるように、将来必ずやパレスチナはミルクと蜜が流れる永遠の地として発展するだろう。「NHK映像の世紀 第10集」
でも今では「ミルクと蜜が流れる永遠の地」には、多くの血が流れている。
ユダヤ教の聖書に、神がユダヤ人にパレスチナの地をあたえたと書いてある。
ユダヤ人はそれを根拠に、ここにユダヤ人国家イスラエルを建国した。
エルサレムを訪問するチャーチル
画像は「NHK映像の世紀 第10集」から。
1921年に、ユダヤ人だったイギリス総督の長男が結婚した。
長男はユダヤ教徒だったが、結婚式はアラブの伝統的なやり方で行われた。
ユダヤ教徒がアラブのやり方で結婚式をする。
そして、その式をユダヤ人もアラブ人も祝福していた。
この時、ユダヤ民族とアラブ民族の共存はうまくいっていた。
今では考えられないけど。
でも、1930年ごろに様子が変わる。
ユダヤ人がどんどんパレスチナに入って来た。
これは、ヨーロッパでナチスがユダヤ人迫害をしていたことが大きい。
たくさんのユダヤ人がパレスチナに逃げて来る。
増え続けるユダヤ人に、アラブ人は危機感を持った。
それで反ユダヤデモを行うようになっていく。
当然、ユダヤ人とアラブ人がぶつかるようになる。
これが、今のユダヤ人とアラブ人(パレスチナ人)の衝突の原点だろう。
*「パレスチナ人」とはパレスチナにいるアラブ人のこと。
イギリスはユダヤ人のパレスチナへの入植を制限する。
この決定にユダヤ人が猛反発し、反イギリスデモをおこなう
これにイギリスがまいった。
「アラブ人は何も恐れなくてもよい。大英帝国がユダヤ人の入植をコントロールしていくからだ」とチャーチルは言ったけれど、コントロール不可能になっていく。
そして最後は、「自分たちにはもうムリ!」とイギリスはギブアップ。
パレスチナ問題の解決を国連にゆだねて、イギリスはパレスチナから出て行った。
「あとはよろしく!」とイギリスから丸投げされた国連は、1947年に「パレスチナ分割案」を決議する。
これは高校世界史で習う。
パレスチナ分割案
1947年11月の国連総会で決議された、地中海東岸のパレスチナを、イギリスの委任統治終了後、ユダヤ人とパレスチナ人の国家に分割する内容。米・ソの思惑が一致して、56%の土地にユダヤ人の国家を建設するとした。
「世界史用語集 (山川出版)」
この国連総会で、パレスチナ分割案が決議された。
世界がこの国連総会に注目する。
ユダヤ人とパレスチナ人の両方から恨まれるのを嫌ったイギリスは投票を棄権した。
この国連決議によって、翌年1948年にイスラエルが建国される。
喜びにわくエルサレム
画像は「NHK映像の世紀 第10集」から。
パレスチナ側は、エルサレムをパレスチナ国家の首都と考えている。
だから、アメリカがここをイスラエルの首都として、大使館を移すことを絶対に認めない。
国連決議(パレスチナ分割案)によってイスラエルが建国されたのだけど、「パレスチナの土地はアラブ人のものだ!」と主張するアラブ諸国は認めない。
ユダヤ人の側にも「パレスチナの地はユダヤ人だけのものだ」と考える人たちがいた。
あるユダヤ武装組織の指導者はこう主張する。
このパレスチナの土地に、ユダヤとアラブの両民族を受け入れる余地はない。
このせまい土地にアラブ人がいる以上、我々ユダヤ人の安住の地は望めないのである。
唯一の解決策は、ヨルダン川の外にアラブ人を追い出し、そこを彼らの土地とすることである。
アラブ人の一村落、一部族たりともパレスチナに残してはならないのだ。「NHK 映像の世紀 第10集」から。
ユダヤ人の国を認めないアラブ諸国が、イスラエルとの戦争を始める。
これが第一次中東戦争(1948~1949)だ。
この画像では見にくいけれど、アラブ側は馬(ラクダ?)に乗って戦っている。
これじゃ、アメリカの全面支援を受けたイスラエル軍には勝てない。
イスラエルはアラブ諸国を相手に圧倒的な勝利を得る。
ジャーナリストの落合信彦氏は、イスラエルの強さの理由を「極度のおびえによるもの」と指摘した。
数千年にわたって負け続け迫害され続けてきたユダヤの民たちの「もう絶対に国を失いたくない」という激しい思いの結果であり、極度の怯(おび)えに裏打ちされた強さだった
「憎しみの大地 (落合信彦)」
イスラエルは戦争の勝利と同時に土地も手に入れた。
戦後、イスラエルは分割案の約1.5倍、パレスチナ全域の8割を領土とした。
「世界史用語集 (山川出版)」
イスラエル建国と第一次中東戦争によって、約70万人のパレスチナ難民がうまれた。
あるパレスチナ難民はこう話す。
昔はよき隣人だったのに、戦争によってユダヤ人は残虐な侵略者となりました。
我々は、ただ戦争を避けるために一時的に逃げたのです。だから着の身着のままでした。
誰もが、2,3日もすればまた村に帰れると思っていました。しかし、我々は二度と自分の家には帰れませんでした。
我々の中には、イスラエル兵の目を盗んで村へと帰ったものもいました。
しかし、彼らはやがてイスラエル兵に捕まり、殺されるか、よくてもトラックで国境線まで運ばれ、鉄条網の外に放り出されたのです。「NHK 映像の世紀 第10集」から。
パレスチナ問題を説明するものは、「イスラエル=悪、パレスチナ(アラブ人)=善」という設定が多い。
でも、イスラエルが一方的に悪いわけではない。
パレスチナ人やアラブ側が国連のパレスチナ分割案を受け入れていたら、44%の国土はパレスチナのものだった。
それを認めずイスラエルを相手に戦争を始め、負けてしまった。
敗戦の結果、土地は約20%になった。
パレスチナ人やアラブ諸国が、不満があっても国連決議を尊重して「ユダヤ人とアラブ人の2カ国共存」を受け入れていれば、いまのパレスチナ問題は生まれなかっただろう。
アラブ諸国は、ユダヤ人を追い出してパレスチナの土地を全部アラブ人のものにしようとした。
パレスチナ問題ではイスラエルも悪いけど、でも、パレスチナ人やアラブ人だって悪いんですよ。
いま国連や世界の多くの国は、パレスチナでのユダヤ人国家とアラブ人国家の「2カ国共存」を主張している。
でも、イスラエルはこれを認めない。
アメリカがエルサレムをイスラエルの首都とするのは、この流れに逆行する。
それで国際社会が反対している。
さて、”ゆとり”でも分かるように、説明できましたでしょうか?
ユダヤ教徒がアラブの伝統にしたがって結婚式を挙げて、ユダヤ人とアラブ人が共にそれを祝福する。
またこんな日が来るだろうか?
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ナチスによるユダヤ人迫害の実態・”絶望の航海”とホロコースト。
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