はじめの一言
「ここの田園は大変美しいーいくつかの険しい火山推があるが、できるかぎりの場所が全部段々畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。これらの段畑の或るものをつくるために、除岩に用いられた労働はけだし驚くべきものがある。
(ハリス 江戸時代)
「逝きし日の面影 平凡社」
今回の内容
・龍門の仏像と則天武后
・○○○をつくった
・水戸黄門と
・龍門の仏像と則天武后
中国旅行で、洛陽に行ったことがある。
なんといっても、世界遺産の「龍門」遺跡(写真↑がそう)を見ることが最大の目的。
龍門石窟(りゅうもんせっくつ)は中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院。「龍門石窟」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
(ウィキペディア)
そのときにお世話になったガイドはこんな説明をしてくれた。
「龍門にあるこの仏様(武廬舎那仏:びるしゃなぶつ)は、則天武后(そくてんぶこう)をモデルとしています」
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、奈良の東大寺にある大仏と同じ仏様。
仏像では、聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、東大寺大仏)が有名。
(ウィキペディア)
ご存じ奈良の大仏(毘盧遮那仏)
せっかくガイドがそう説明してくれたんだけど、それは昔のはなしだ。
「龍門にある毘盧遮那仏は則天武后がモデルとなった」
確かに、以前はそう思われていた。
でも今では、それはちがっているというのが定説。
その本尊、盧舎那仏の顔は、当時既に実権を掌握していた武則天の容貌を写し取ったものと言う伝説があるが、寄進と時期的に合わず今では否定されている。
また、武則天は弥勒仏の化身と言われ尊像としても合わない。龍門最大の石窟である。(ウィキペディア)
則天武后がモデルにはなっていなかったとしても、確かにこの仏は女性の顔に見える。
則天武后(そくてんぶこう)という女性は、7世紀から8世紀に生きた中国の女性。
彼女が有名なのは、中国4000年の歴史でただ一人の「女性の皇帝」だから。
この女帝と日本とのかかわりは意外と深い。
前の記事では、この皇帝が認めたことで、「日本」が国際的な国名になったということを書いたね。
今回は、これは違うこの女帝と日本とのつながりを書いていきたい。
則天武后(ウィキペディア)
・○○○をつくった。
まずは、問答無用で次の文を読んでほしい。
でもって、この文で則天武后がしたことは、日本の歴史ではどんな出来事になるかを考えてみて。
*文中の「妖僧」とは、「妖怪のようなあやしい僧」でいいや。
薛懐義(せつ かいぎ)は、僧の名前。
頒ちは「わかち」で、「配る」という意味。
妖僧薛懐義は、「大雲経」のなかに浄光天女即位のことがあると言い出し、武則天の新王朝づくりに協力したのです。
「大雲経」というのは偽造された経文ですが、武則天はこれを天下に頒ち、諸州に大雲寺をつくることを命じました。(中国五千年 下 陳舜臣)
「お経を中国の各地に配置するために、大雲寺という寺をつくった」。
ということは?
そんなことが日本にもあったっけ?
ありました!
答えは、これ。
諸州に官寺を置くという発想は、遣唐使によって日本に伝えられ、これが国分寺建立となったのです。
(中国五千年 下 陳舜臣)
「国分寺」って覚えてる ?
奈良時代に聖武天皇が日本の各地に建てたお寺のこと。
国分寺 諸国の国府付近に建立された僧寺。国分寺僧は20人の層と金光光明最勝経をおいた。
(ウィキペディア)
741年に、国分寺建立の勅(みことのり:天皇の命令)を出している。
国分寺建立の勅
聖武天皇が出した詔で、国ごとに僧寺・尼寺を設け、国家の平安を祈らせた。当時の悪疫や政治不安が背景。
(日本史用語集 山川出版)
「則天武后は、「大雲経」というお経を中国の各地に分けるために、そのお経を補完するための「大雲寺」という寺を建てた」
「聖武天皇は、金光光明最勝経(こんこうみょうきょう)というお経を日本の各地に分けるために、それを保管する国分寺を建てた」
つまり、聖武天皇は日本全国にお経を置くために各地に国分寺をつくったのは、則天武后がしたことを参考にしている。
でも、さらに元をたどれば、これは古代インド(マウリヤ朝)のアショーカ王がしたことにたどり着くんだろうけどね。
奈良の都の東大寺に、龍門と同じ大仏(毘盧遮那仏)をつくったのも則天武后の影響があるかも。
ちなみに、国分寺は東京にある「国分寺市」の由来にもなっている。
741年に聖武天皇の命により建立された国分寺(武蔵国分寺)がこの地にあったことに由来する(ウィキペディア)
・水戸黄門の「則天文字」
それと、これも中国人の日本語ガイドさんから聞いた話。
日本で「水戸黄門」として有名な「水戸光圀(みつくに)」の「圀」という漢字って、すごく難しくない?
実はこれ、唐の時代につくられたとても特殊な漢字。
「水戸光圀(みつくに)」の「圀」という漢字は、唐の則天武后がつくらせた漢字で「則天文字」と呼ばれいている。
則天文字
武則天が権力を誇示するため、あるいは個人的な好みや考えのため制定されたとされる。武則天が失脚するとほどなく忘れ去られた。
(ウィキペディア)
ガイドさんの話では、この則天文字は則天武后が亡くなった後には使われなくなっていて、今の中国ではなくなった漢字らしい。
でも、その文字が「水戸光圀(みつくに)」の「圀」として、なぜか日本で使われている。
ガイドは、そのこと知って驚いたらしい。
このことは、ウィキペディアにも書いてある。
日本で最も有名なのは「圀」の字で、徳川光圀の名前に使用されている。
この字は「國」の「或」の部分が「惑」に通じるので不吉だと理由で「囗」(くにがまえ)に「八方」という字が入れられた。(ウィキペディア)
この則天武后という女帝は、いろいろなものを変えている。
唐という国名を「周(しゅう)」にしたり、都の洛陽を「神都」という名前にしたりと。
おまけ
ちなみに、この水戸光圀(水戸黄門)が日本で初めてラーメンを食べた人と言われている。中国人の師「朱 舜水(しゅ しゅんすい)」に作ってもらったという。
朱舜水
「明の儒学者である。江戸時代初期に来日(ウィキペディア)」
でも、日本史をしている人はラーメンよりも「尊王攘夷」という言葉に注目。
このとき師である朱舜水は、水戸光圀に「尊王攘夷」という考えを伝えている。
これが後の世、幕末の志士たちが唱えた「尊王攘夷」につながった。
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知ってください!想像をこえる遣唐使の苦労。日本をつくった人たち。
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