はじめの一言
幕末にやってきたアメリカ人のハリスは田園風景の美しさに感動し、日本人の勤勉さについてこう感嘆した。
「できるかぎりの場所が全部段々畑になっていて、肥沃地と同じように開墾されている。これらの段畑の或るものをつくるために、除岩に用いられた労働は驚くべきものがある」
今回の内容
・龍門の仏像と則天武后
・○○○をつくった
・水戸黄門と
・龍門の仏像と則天武后
以前、中国を旅行していて、世界遺産の龍門石窟(トップ画像)を見るために洛陽を訪れた。龍門石窟では60歳ほどの日本語ガイドのお世話になり、彼女はこんな説明をした。
「龍門にあるこの仏様(武廬舎那仏:びるしゃなぶつ)は、則天武后(そくてんぶこう)をモデルとしています」
東大寺にある大仏も毘盧遮那仏だ。
奈良の大仏(=毘盧遮那仏)
ガイドがそう説明してくれたのだけど、失礼ながら、その認識は時代遅れで、「龍門にある毘盧遮那仏は、当時、実権を握っていた則天武后がモデルとなった」という説は現在では否定されている。
則天武后とは関係なかったとしても、確かにこの仏は女性の顔に見える。
唐王朝にいた則天武后は五千年の中国の歴史で、ただ1人の女性皇帝として知られている。
この女帝と日本とのかかわりは深い。
前の記事で、この皇帝が認めたことで「日本」が国際的な国名になったということを書いた。
この女帝と日本には別のつながりもある。
則天武后
・○○○をつくった。
突然だけど、ここでクエスチョン。
以下の文で則天武后がしたことは、日本の歴史ではどんな出来事になるでしょう?
妖僧薛懐義は、「大雲経」のなかに浄光天女即位のことがあると言い出し、武則天の新王朝づくりに協力したのです。
「大雲経」というのは偽造された経文ですが、武則天はこれを天下に頒ち、諸州に大雲寺をつくることを命じました。「中国五千年 下 (平凡社) 陳舜臣」
*薛懐義(せつ かいぎ)は僧の名前。
頒ちは「わかち」で、「配る」という意味。
「お経を中国中に配置するために、各地大雲寺という寺をつくった」というのは、日本の歴史ではこの出来事に相当する。
諸州に官寺を置くという発想は、遣唐使によって日本に伝えられ、これが国分寺建立となったのです。
「中国五千年 下 (平凡社) 陳舜臣」
奈良時代、聖武天皇が日本の各地に金光光明最勝経(こんこうみょうきょう)をおくため、741年に、国分寺建立の勅(みことのり:天皇の命令)を出した。
国分寺建立の勅
聖武天皇が出した詔で、国ごとに僧寺・尼寺を設け、国家の平安を祈らせた。当時の悪疫や政治不安が背景。
(日本史用語集 山川出版)
則天武后は中国の各地に大雲寺を建て、大雲経というお経をおいた。
聖武天皇も日本各地に国分寺を建て、金光光明最勝経というお経をおいた。
ちなみに、国分寺は東京にある「国分寺市」の由来になっている。
これは偶然ではなく、聖武天皇は則天武后のしたことをモデルにしたのだ。
さらに元をたどると、これは古代インド(マウリヤ朝)のアショーカ王がしたことにたどり着くと思われる。
東大寺に龍門石窟と同じ大仏(毘盧遮那仏)をつくったことも、則天武后の影響があるかもしれない。
・水戸黄門の「則天文字」
龍門石窟では日本語ガイドから、「水戸黄門」で有名な水戸光圀(みつくに)の「圀」という漢字についての話を聞いた。
唐の時代、則天武后は自身の権力を誇示するため、または個人的な好みから、「則天文字」と呼ばれる特殊な漢字を作らせた。
「圀」という漢字もその一つ。
ガイドの話では、則天武后が亡くなると則天文字も使われなくなり、現在の中国では消失している。でも、彼女はその文字を「水戸光圀」の中に見つけたから、とても驚いたと言う。
そのことについて、ウィキペディアにはこんな説明がある。
「日本で最も有名なのは「圀」の字で、徳川光圀の名前に使用されている。この字は「國」の「或」の部分が「惑」に通じるので不吉だと理由で「囗」(くにがまえ)に「八方」という字が入れられた。」
この則天武后という女帝は唐という国名を「周(しゅう)」にしたり、都の洛陽を「神都」に改名したりと、いろいろなものを変えている。
その名残が日本にあった。
おまけ
日本で初めてラーメンを食べたのが水戸光圀(水戸黄門)だ。江戸時代の初期、明からやってきた中国人の朱 舜水(しゅ しゅんすい)に作ってもらったという。
…と言われていたが、これも時代遅れで、今ではもっと古い記録があるらしい。
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