これまで、日本人が「日本」や「日本人らしさ」を外国人に説明できることが大切だよ、ということを書いてきた。
来日してくれた外国人に、彼が日本について知りたいことを伝えることが、「おもてなしになる」ということがその一つの理由。
今回話す二つ目の理由は、それを自分なりにでも外国人に話すことで、「一歩進んだ国際交流」ができるから。
この「一歩進んだ」というのは、「それまでボクがしていた交流よりは、一歩進んだ」というもので、他の人より一歩進んでいるということではない。 あくまで、「自分比」の話。
もともとボクは海外旅行が好きで、細々と英会話も続けていたこともあって、外国人と交流することに興味があった。
下手な英語が通じればうれしいし、外国人と一緒にいたりするだけでもいろんな発見があって、それだけでも十分に楽しい。
前まで、そんな交流をしていた。
でも、外国人が疑問に思った日本や日本人のことをできるだけ答えていくうちに、外国人と交流する目的が変わってきた。
「一緒にいて楽しい交流」から、今まで自分が知らなかったような価値観やものの見方を知ることで、知的好奇心が刺激されるような交流になってきた。
これが、ボクにとって、それまでの「楽しい交流」から、「自分なりに一歩進んだ交流」になる。
相手が疑問に思ったことをこちらが話せば、当然、その相手からも何らかのリアクションがある。
例えば、一緒に京都旅行をしたアメリカ人は「何で日本人は好きなお守りを買うことができるのか?」ということをボクに質問をした。
それについて、ボクが話をしていたとき、「日本で神はどのような存在か」という話題になった。 日本では、「人は死ねば神になることができる」という考えがあることをボクが話すと、彼女は驚いて目を丸くする。
「その『神』は、キリスト教でいうGodとは、まったく違う。人がGodになるということは、絶対にあり得ない」と話す。
確かに「人はGodによって造られた存在」だということは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では議論の余地のない絶対的な考え方だ。
人がGodになるなんていう考えは、彼らの宗教ではどこをどうやっても出てこない。
こうした話からも、日本語ではGodを「神」と訳すけれど、Godと日本の神とはまったく違った存在なのだな、ということが分かってくる。
このへんの話に興味がある人は、こちらの記事をどうぞ。
アメリカ人と京都旅行⑤~キリスト教の「GOD」と日本の「神」の違い~
そして今度は、逆にボクが彼女に質問をした。
日本では合格祈願にお寺や神社にお参りをしてお守りを買うことが多いけれど、キリスト教徒のアメリカ人はどこでどのように合格祈願をするのか?
まあ祈ることがあれば、教会に行ってするのだろうな、という見当はついてはいた。
すると、彼女は「それはどこでもいい」と言う。
彼女は、教会には行かないし、そもそも、カトリックにとっては教会は神聖な場所かもしれないけれど、プロテスタントの彼女にとって教会は神聖な場所ではないという。
「キリスト教徒(プロテスタント)にとって、教会は聖なる場所ではない」という考え方には、驚いた。
では、教会とはどのような場所なのだろう?
そこから、プロテスタントとカトリックの考え方や信仰の違いを聞くことで、キリスト教やアメリカの社会についての理解を深めることができた。
会話では、自分が話したことが相手から返ってくる。
こちらが天気の話をすれば、相手も天気の話を返す。
こちらが、日本のことや日本人の宗教観について話せば、相手は、相手の国ことや相手の宗教観について話す。
そのことによって、それまで自分が知らなかったような価値観や見方を知ることができる。
これは、それまでボクがしていた「外国人と一緒にいることを楽しむ」という交流ではあまりなかった。
外国人との交流での大きな楽しみの一つは、今までの自分にはなかったような視点や考え方と出会うことがある。
それらを知るためには、こちらからそれなりの話題を振ることが大切だと思う。
宗教や政治や歴史の話題であっても、「それは間違っている」と相手を否定しなければ問題はない。
欧米人であれば、むしろ、相手の意見を聞いたり、自分の意見を言ったりすることが好きな人は多い。
欧米人は、「自分の考えや意見を言う」ということを尊重しているように感じる。
これはもちろん、アメリカ人だけにとどまらない。
このまえ中国人と話をしていたときに、日本の天皇についての話題になった。
そしてこのときも「中国人から見た天皇」という、中国人の視点から天皇という存在をとらえることで、今までまったく考えたこともなかったような天皇のイメージが見えてきた。
~続く~
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