「日本のシンボルって何だと思う?」
と外国人にきくと、すし・忍者・富士山なんかと一緒に「さくら」がよく出てくる。
いきなり話がそれるのだけど、憲法に書いてあるからといって「天皇は日本のシンボル(象徴)だ」なんて言っても外国人には通じないからご注意を。
さて、話を桜にもどす。
日本人の桜好きはいうまでもない。
「桜前線」という不思議な前線が存在する国は世界で日本だけ。
「桜は日本のシンボル」ということは、いまや世界の常識だ。
それはわかるのだけど、でも、それはいつからだろう。
桜はいつ「日本の花」になったのか?
これにはいろいろな考え方があるから、ここではそのひとつを紹介しようと思う。
でもその前に、日本の歴史や文化の特徴ってのを確認しておこう。
日本の歴史や文化にもっとも多くの影響はあたえた国は間違いなく中国だ。
とくに古代、隋と唐には本当にお世話になった。
この時代、遣隋使や遣唐使が中国にわたって、政治制度や文化などを吸収してまくっていた。
日本人は吸収するけど消化もする。
中国にあるものの中から、日本に必要なものをピックアップしたり、日本人に合うように変化を加えたりしている。
中国のコピーはせず、「日本化」させて別物にしてしまうというのが、日本の歴史や文化の大きな特徴だ。
そのへんを踏まえて、津田 左右吉(つだ そうきち:明治6年 – 昭和36年)という有名な歴史学者がこう言っている。
日本人の造り出した文学も芸術も、またその根柢になっている精神生活も、支那人のとはすっかり違っている。日本には、支那とは無関係に、日本だけで独自の歴史が開展せられ、それによって、平安朝の貴族文化も 鎌倉以後の武家政治も徳川時代の封建制度も形成せられたが、これらは全然支那には生じなかった
「東洋文化、東洋思想、東洋史 (津田 左右吉)」
*「支那」は中国のこと。
平成のいま、「支那」という言葉は適切ではないからNG。
けっきょく日本人と中国人は価値観も感性もちがうのだ。
だから中国のものを取り入れても、日本風になってしまう。
武家政治(幕府)なんてものは、中国の歴史にも韓国の歴史にもない。
日本は中国にいろいろなことを学んでいたけど、歴史や文化は中国とは無関係に、日本だけの独自の開展がみられた。
日本文化の代表である着物や扇子がまさにそれ。
着物も扇子もルーツは中国にあるけど、日本人はそれを、自分の感性や価値観に合ったものに変えてしまった。
そのことはこの記事で↓
中国との違い③日本人の強み「変える力」唐の着物を日本の文化に
桜が「日本の花」になった過程もこれに似ている。
さて、京都御所には「左近の桜・右近の橘(たちばな)」というものがある。
日本人なら、このふたつはぜひ知っておきたいところですよ。
御所の「紫宸殿(ししんでん)」という建物の前庭にこれが植えられている。
東側にあるのが左近の桜で、西側にあるのが右近の橘。
左近の桜がチラリと見える。
いまは桜だけど、もともとここにあったのは「梅」だった。
中国人が梅の花を好きだったから、このときは中国をまねて日本人も梅を植えたのだろう。
ちなみに、平安遷都した桓武天皇が梅の木を植えている。
でも、いつしかそれが桜になっていた。
諸説あってハッキリ分からないのだけど、9世紀、仁明天皇のときに桜を植えたという説があれば、10世紀に梅に代わって桜になったという説もある。
細かいことはいいじゃないか、人間だもの。
さて、桜はいつ「日本の花」になったのか?
「中国のものが日本風に代わる」という日本の伝統から考えると、平安時代、梅に代わって左近の桜が登場したときから、桜は日本のシンボルとなったのだ。
外国人がよく参考にする英語版ウィキペディアにも、奈良時代には梅が日本人に好まれていたけど、平安時代に桜が登場すると日本人はこの花に夢中になったというような記述がある。
Plum blossoms were favored during the Nara period (710–794) until the emergence of the Heian period (794–1185) in which the cherry blossom was preferred.
奈良時代に成立した『万葉集』には桜より梅を取り上げた歌の方が多いけど、平安時代の『古今和歌集』では、梅より桜が多く登場している。
中国人好みの梅から離れて桜を愛でるようになった平安時代のころから、この花は日本の象徴になったのだ。
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