「インドのサドゥー」と「一眼レフが奪う旅の面白さ」

 

何度も海外旅行に言っていると、友だちからこんなことを聞かれることがある。

「今度、海外旅行に行くけど、何持って行けばいい?」

そしたら、こう答える。

「パスポートとお金があればいいよ。そこで現地の人が生活しているんだから、必要な物があっても現地で手に入るし。とにかく、旅の荷物は少ない方がいい」

で終わればいいのに、「それと、好奇心かな」といらん一言を付け加えるから、相手に引かれる。
他人には、そんなことを言いつつ、自分の旅の荷物はどんどん増えていく。
衣類は減ったけど、スマホにデジカメにビデオまで持って行くようになってしまった。

 

一日の観光を終えて、宿の部屋でいろんな機器に充電するとき、コードの数の多さに我ながら驚く。
旅に出た20年前なんて、充電する物なんて何もなかったのに。

「旅の達人ほど、荷物が少ない」なんてことをよく聞く。
自分は、とてもなれそうにない。

この20年の間に、いろんな旅人と出会ってきた。
その中でも、荷物の少なさで驚いたといえば、やっぱり、インドの「サドゥー」を置いて他にいない。記事の上の写真がサドゥー。

ヒンドゥー教におけるヨーガの実践者や放浪する修行者の総称(ウィキペディア)」。で、日本語では「行者」「苦行僧」とも呼ばれる。(ウィキペディア)

サドゥーはあらゆる物質的・世俗的所有を放棄し、肉体に様々な苦行を課すことや、瞑想によりヒンドゥー教における第四かつ最終的な解脱を得ることを人生の目標としている。服を着る場合は、俗世を放棄したことを示す枯葉色の衣服を身につけて数珠を首に巻く。

(ウィキペディア)

写真のサドゥーは、歩いてガンジス川に向かっているところだった。
でも、地図をざった見た感じでは、そこからガンジス川までは、山口県から青森県くらいの距離がありそうだ。すごいな。

 

一緒にいたインド人に、このサドゥーについて聞いてみた。

「一人で歩いていて、強盗には会う危険はないの?」
「サドゥーから盗る物なんてあるわかないだろ。現金も貴重品もないし。あんなボロい服なんていらないし。逆に、強盗の方が何かをあげるんじゃないの?」
と笑う。

「お金がないって、何を食べて、どこで寝てるの?」
「食べ物は、村の誰かがくれるよ。寝る場所なんて、寝たくなったところだろ」
自由過ぎる。

「でも、もし、サドゥーが途中で死んだらどうなるの?」
「そしたら、その村の人が火葬するんだろ。で、誰かが遺灰をガンジス川に持って行って、流すんじゃないかな?よく分からないけど」
さすがインドのサドゥー、スケールが違い過ぎる。

ガンジス川に行く途中なら、いつ死んでもいいらしい。
そうだとしたら、命ももっていないようなものだ。
こういう修行者を「旅人」に入れることは反則かもしれないけど、この人の「断捨離」ぶりは、けた違いだった。

 

 

ボクの旅の荷物の中で、最近、やっかいになりつつある物に、一眼レフカメラがある。一眼レフ自体は、もちろんいい。
高いお金を出した価値があって、一眼レフはそれまで使っていたコンパクトカメラとは、でき上がる写真がまるで違う。

「海外旅行に行くなら、一眼レフが欲しくなるよ」
と、旅行者に言われたことはあったけれど、何せ、高い。

一眼レフを買う前は、「こんなにお金を出す価値があるのか?」と思っていたけど、使ってみたら、「何で早く買わなかったのだろう」と、後悔した。
先ほどの旅行者の言葉を実感する。これがあったら、もっと良い旅の思い出が残せたのに。

でも、次第に、「これでいいのかな?」とも思うようになってきた。
一眼レフは、良いというより、良すぎる。
ボクのようなど素人でも、そこそこ、いい写真が撮れてしまう。
そうなると、写真を撮ることが楽しくなって、自分なりに写真の撮り方にもこだわりが出てくる。

旅先で、「どうやったら、もっと良い写真が撮れるのか」を考えて、建物を撮るときも、場所を左右前後に移動していろんな角度を変えたり、しゃがんで高さを変えたりして、何枚も写真を撮るようになった。
で、撮った写真をその場で確認して、満足がいかなかったら、もう一度取り直す。

結局、写真撮影に時間がかかりすぎてしまう。

フィルムカメラやコンパクトカメラを持っていたときは、ここまで写真撮影に時間をかけることはなかった。
遺跡に行ったときには、数枚の写真を撮ったら、後は、その場を歩き周ったり、ぼ~っと座ってここで生活していた人たちの様子を想像したりしていた。

今思えば、ぜい沢で豊かな時間だったと思う。
たっぷり時間をつかうことができて、その場を存分に味わうことができていた。
でも、一眼レフを持っていると、撮影に時間をかけてしまって、この旅の醍醐味を味わう時間が減ってしまった。

 

ボクがフィルムカメラを使っていた20年前と今とでは、もう、何もかも違う。
特に感じるのは、カメラやビデオなどの映像機器の性能がとんでもなく進化したことで、より実物に近いものを再現できるようになったことだ。

すると、逆に、やっぱり本物にはかなわないなあ、と思う。

どれだけ技術が進歩して本物に近づいても、結局はバーチャル・リアリティーなんだから、本物にたどり着くことなんてできない。
テレビで外国の街を散歩するのを見ることもいいけれど、実際にその街を歩くことは全然違う。
「本物ってやっぱりいいなあ」と改めて実感する。

 

「海外に行くなら、どこがおススメですか?」
と、ボクが聞かれたときは、カンボジアをおススメしている。
理由は簡単、とにかく、アンコールワットは素晴らしいから。

8kの超高画質、大きい画面、リアルな音、これらをもってしても、やっぱり、本物のアンコールワットのすごさは伝えられない。

どこまでも広がる青い空の下、大地に君臨するようなあの存在感は、本物を見ないと分からない。
現地に行けば、遺跡を見るだけではなくて、におい・音・暑さ・石の感触も味わうことができる。

アンコールワットの良さやすごさは、五感をとおして伝わってくる。
「アンコールワットなら、テレビで何回も見た」という人こそ、現地に行って本物に触れる方がいいと思う。
行けば、テレビで見たアンコールワットと実物のアンコールワットがどれだけ違うか分かるから。

もちろん、これは個人的な意見だけどね。

 

旅の魅力はいろいろあるけれど、その最大の魅力の一つは、現地に行って本物に触れることができることがある。
けれど、一眼レフカメラを持ってからの自分の旅を振り返ってみると、「良い写真を撮る」ということに時間とエネルギーを使ってしまって、五感を使って本物の良さを存分に味わうことが減ってしまった。

結局、一眼レフは、ボクには良すぎたのだ。
確かに、いい写真を撮れたらうれしいけど、ボクが旅で一番したかったことはこれじゃない。と思って、今回の旅では、一眼レフを持っていくのはやめた。

それと、SNSで写真を見せようにも、SNSをやっている友だちが、あんまりいない

ということで、今回の旅では、写真を撮るならスマホにして、とにかく歩き回る。そして、見て、聞いて、感じる。できるだけ、本物を五感で感じとろうと思う。

なんて、カッコいいことを言ってみた。
本当は、今回の旅でも、一眼レフカメラを持って行こうかやめようかギリギリまで迷っていたんだけどね。
どうせ海外に行くなら、きれいな写真を撮りたいし、それなりのお金を出して買ったカメラたから持って行かないのももったいないしさ。

でも、最近、腰痛がひどくなった。
この腰の状態で、一眼レフを肩から下げて、長時間歩き回る自信がない。
「写真撮影を減らして旅を楽しむ」+「腰痛」=「スマホでいいや」ということに決定。

とにかく、本人は納得しないかもしれないけれど、旅友の一眼レフには、自宅待機を命じることになった。

 

 

旅も人生も、持ち物とストレスは少ない方がいい。
身が軽くなると、心も軽くなる。

では、行きますか。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。