ノーベル賞に見る日本人と韓国人の違い:職人気質/上昇志向

 

「日本からまたノーベル賞受賞者が誕生した。科学分野だけですでに24回目だ。」というとても韓国紙らしい文章から朝鮮日報の寄稿(2019/10/20)がはじまっている。

【寄稿】壮元及第のDNAと職人根性のDNA

*これは書いたのは教育科革新研究所長のイ・ヘジョン氏

これもとても韓国らしい発想だけど、日本の偉業をうらやんだあと、「最も批判されるのは韓国の教育だ」と国内の惨状にため息をつく。
ノーベル賞シーズンの韓国メディアのガッカリ報道は、日本ではすっかり秋の風物詩として定着している。
それと同時に、日本に対する強烈なライバル意識に当惑する人が続出。

(韓国人からすると)韓国と日本は同じような教育を行っているのに、どうしてこんなに差がついたのか?
慢心、環境の違い、その原因はいろいろあるけどこの寄稿文では、ソウル大学の教キム授が主張する「韓日の勉強文化の違い」に求めている。
それによると韓国の勉強文化にはトップ合格を目指す壮元及第DNAがあって、日本の勉強文化には職人根性DNAがある。
くわしいことはこの寄稿を読んでもらうとして、ここでは大ざっぱに内容を説明する。

韓国の歴史では特に朝鮮王朝時代(日本でいえば室町~明治時代)に、科挙という国家公務員試験がさかんに行われていた。
*以下、「」は寄稿からの引用

科挙に「トップ合格が勉強する全ての人々の夢だったのだ」と指摘する。
*科挙の最終試験にトップ合格した人には、状元(じょうげん)という称号があたえられる。

勉強だけに限らず、韓国では芸能界もスポーツ界でも強烈にトップを目指す“ナンバーワン文化”がある。これも数百年続いた科挙制度の影響だ。

この点が韓国と日本はまるで違う。
韓国では科挙に受かれば上級官僚になることができたけど、日本にはそもそも科挙制度がなかった。
侍の子は侍、農民の子は農民になるといった身分制度が続いた日本では、「一生懸命に勉強して立身揚名する体制がなかった」という。

 

こんな社会体制の違いが韓国人と日本人の価値観の違いをうんだと主張し、具体的にこう書く。

「韓国のそうめん屋のオーナーは、子どもがそうめん屋を継ぐよりも、一生懸命に勉強して立身揚名するのを願う。」

「韓国ではとんカツ屋の息子が国家試験にパスして判事や検事になるのが誇らしい文化であるのに対し、日本は3代がとんカツを作るのが誇らしい文化なのだ。」

韓国には試験に受かれば身分も変わって何でも手に入る「壮元及第DNA」があって、日本には決められた身分の中でその道を究める「職人根性DNA」がある。

韓国ではいまでも大学教授は“上昇志向”で、路線変更して政治の世界に飛び込むことは当たり前のようにある。
それに対して、日本の教授はひとつの分野の研究だけに没頭する。
その結果、「このような職人根性DNAが、今日の日本に数十個のノーベル賞を受賞させた原動力となった」という。

*韓国にはpolitics(政治)とprofessor(教授)を合わせた「ポリフェッサー」という造語がある。ふつうは悪い意味で使われる。

 

 

「日本には、ひとつの道を究める職人に高い敬意をはらう文化がある。」

職人根性DNAという言葉は使わなかったけど、韓国とはそんな違いがあることに気づいた人が16世紀にもいた。
豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったとき、日本軍は姜沆(きょうこう)という朝鮮人を連れてくる。
高校日本史でならう人物だからおぼえておこう。

姜沆 1567~1618

朝鮮の官人・儒学者。慶長の役の時に連行される。藤原惺窩らの日本の儒学者に大きな影響を与えた。

「日本史用語集 (山川出版)」

 

日本に数年滞在していた姜沆はその記録を「看羊録(かんようろく)」という書にまとめた。
それを読むと姜沆は、さまざま分野でその道を究める日本人を不思議そうに見ている。

倭〔の風〕俗では、あらゆる事がらや技術について、必ずある人を表立てて天下一とします。(中略)木を縛り、壁を塗り、屋根をふくなどという、つまらない技にさえみな天下一があり、甚(はなは)だしくは、着署(署名)、表相(表装?)、花押(かおう)のようなものにまで天下一があって、

「看羊録 (東洋文庫)」

 

どんなにくだらない(と見える)ことでも、一芸に秀でた人は「天下一」と称されて高い尊敬を受けるのが日本の社会だった。
試験の合格に最上の価値を置いていた朝鮮(韓国)にはこれがなかった。
DNAというととても韓国的だけど、こういう伝統が職人気質の日本人と上昇志向の韓国人の違いを生み出しているのは間違いない。

で、来年はノーベル賞をとれたらいいですね。

 

 

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日本 「目次」

韓国 「目次」

 

2 件のコメント

  • うーん、ノーベル賞でも特にサイエンス系のノーベル賞は、科学的な事実の積み重ねによって理論を検証することが基礎になります。その姿勢は、たとえば歴史学であっても、学問である以上は全く同じことです。幾多の記録を無視して、嘘の歴史であっても心地良いから陶酔できる方を真実とみなす、それが大多数の国民の合意事項であるというならばノーベル賞はまだまだ遠いでしょうな。
    サイエンスは、冷静に、時に冷酷であっても、事実を正しく認識することから始まるのですよ。

  • 事実より自分の先入観や気分に合致したものを選ぶようでは前に進みません。
    過程や材料が違うだけで、結果はいつも同じですから。
    ただ韓国の日本研究で、私からみても参考になることはあります。
    「日本の優れた点を学ぼう」という動きはあるのですが、毎年あるということは結局、取り入れていないということでしょう。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。